内なる衝動
エゴの声や欲望を認識し、内なる純粋意識に従う事を徹底し始めて数ヶ月。
冬至を過ぎた頃から、ようやく1年近くかかった変容(さなぎ)の期間が終わった感覚がありました。
そんなにも前から続いていた変容の中にいた事さえも、わかっていませんでした。
自我とは何か。
その言葉を知っていたはずなのに、何も知らなかったのだと知った。
私は、そこそこ自分の事が好きだったのだ。(って先日も書いたっけ?)
唯一無二っぽい、誰とも被らないキャラに密かに(?)好意をいただいていた。
超普通っぽいのに、全然普通っぽくないと言われることに、
「なんか知らんけど、あんた凄いよな。」と言われる事に、
「やってる事突拍子もないのに、めっちゃ常識人よな」と言われる事に、
ふふふ、でしょでしょ( ̄▽ ̄+)
私、脱俗世でも俗世でもどっちでもイケる口なんですよ。
なんて悦に入っていた。
(書いてて辛いw)
もちろん、嫌いな部分もたくさんある。
でも、そういう表も裏も、良いも悪いも、長所も短所もひっくるめた「自分」に
間違いなく愛着があった、という事を知った。
だから、その真実の声が現れ始めてから、私という自我は一年近くも必死に抵抗し続けた。
性格が変わるとか、長所短所が変わる事や、
付き合う友人たちが変わってしまう事なんて、それ程重要ではなかった。
(これら↑も重要だったけどね!!)
しかし、
「この目標」がなくなってしまったら、私が私でなくなってしまう。
と感じていた。
その事が一番怖かった。
私の核にあるとずっと感じてきた想い。
魂が震えるほどに求めてきた事が、この人生でやっと明らかになったと思ったのに。
それをすぐに手放す事には抵抗があった。
それでも真実の持つ力は強くて、
どれだけ自我が抵抗しても、
少しずつ、でも大きく、意識が変容していった。
そして気づくと、
それまであった全てが消えていた。
同時に、全てが生まれていた。
この真実から生まれ、現れ続けているものが、
この森羅万象。
この生まれてくるものが現れる瞬間、
そこに存在しているのが内なる衝動であり、
それは完全なる静寂の中で最初に現れる振動。
いのち。
エネルギー伝授を行わない訳
話がそれすぎました。
瞑想の教え方を変えましたが、これは、本当に真我実現を求めている人には徹底的に伝えたいしサポートしたいとずっと思ってきた事だったから。
値段も大幅に下げ、「時間を共有する事」を大切にしました。
逆に言えば、「真実を求めていない人」には、何も伝わらないという事を受け入れたからです。
しかしそれは、伝えるのをやめるという意味ではありません。
「相手が理解できるように」とか「相手が気づきを得られるように」「波動が上がるように」「意識が高まるように」という意識を手放したのです。
ただ、「真実がただ現れるがままに」表現するだけ。
その真実の表れがどんな形であっても、
その真実は、触れる人の真実に影響を与えていきます。
マインドの鎧が分厚くて、それを理解できない人もいるけれど、
静かに影響し、時間をかけてそれは広がっていきます。
その、真実が現れ広がっていく感覚の中にいると、
私がディクシャを推奨しない理由もわかってきました。
ヨガの伝統的な手法は、エネルギーの伝授による瞑想法です。
それは仏陀やキリストでさえも伝授されていたと言われる、「真実の叡智」のエネルギー伝授。
一般的には、そのエネルギー伝授がされないと悟れないと言われています。
神と直接繋がる事は不可能で、グルを通してしか悟れないと言われています。
そして、その「グル」をディクシャを授けることのできる先生を意味してしまっています。
そして現代、そのエネルギー伝授は表の世界にも広がり、誰もがどこででも受け取る事ができるようになっています。
いくら伝える側が「大元」に近いと言っても、
「大元」そのものではありません。
そして、そのエネルギー伝授は本物であれば、奇跡のような体験を与えてくれます。
しかし、悟れる人はほとんどいません。
引き換えに与えられる制約や縛りも強いです。
(全然大元と繋がっていなくて、ディクシャと謳っている人達も多いですが、そういうレベルの低い人達の事は置いておいて、ここでは「本物」のエネルギーを伝授できる極々一部の人に限定して話します。
そもそも伝授するエネルギーの質が悪い人達の事をどうこう言っても仕方ないので。
ここでは本物を見極める目を持っている人たち、本物だけを求めている真の求道者に向けて話しています。)
現代では、制限や縛りが緩く「もっと自由でいいんじゃね?」という態度の人もいますが、
エネルギーが与えてくれている感覚を認識できていないからそんな事が言えるんです。
日本でもインドでも「神社仏閣に参拝する際には正装をしなさい」と言われる事に対して、
「神様はそんなケチなこと言わないよね」というのは、
神様を知らないからです。
神様があなたの態度や服装に対して良し悪しを判断するのではなく、
あなたが「どう在るか」という事が「あなたにとって」大事なのです。
服装は、その「在り方」の現れの一つに過ぎません。
神様がいらっしゃると言われる本殿の前に立つ時のあなたの態度が、
あなた自身に影響するからです。
そして神はいたるところにいます。
神に足を向けずに寝ることは不可能です。
ですが、神の像に「あえて」足を向けて寝る態度のどこに神聖さが宿るというのか。
神とはあなた自身です。そして、あなた以外の全てです。
また脱線しました。
エネルギーは確かにあります。
しかし、そのディクシャを受ける事でそのエネルギーの魅力に「自我」がハマり、
カルマを増やし更に霊性の道をさまよう魂が多いのもまた事実。
勝手にルールを変更し、解釈を変え、敷居を下げて多くの人を集め、
自我を増幅させている。
グルパランパラによって古代から受け継がれてきたシッディの中には、
「受け継がれる」事を想定していないものがあります。
それが、「真我」をそのまま伝える事。
その真我を伝えられ、真我に至ったら、確実に真我は伝わるのです。
そこにディクシャは要りません。
それは様々な形で現れ、一つのフォームを持ちません。
その瞬間、その瞬間、その時々の条件や背景、その人の状況、立場、意識の癖、その全てで「真我の現れ方」は変わります。
それが真実なんです。
必要なのは、伝授によって繋がれた「神との縁」ではありません。
真我の実現に必要なのは、ただ一つ。
真実を知りたいと願う、真我そのものの声
です。
真我を求めることはエゴではありません。
エゴも同じ言葉を使うでしょう。「真実が知りたい」と。
しかし、そこには明確な違いがあります。
あなたが真実の声に耳を傾けるなら、
あなたは確実に真我に「なる」でしょう。
ニームカロリババもサイババも伝授はしなかった
実は、この記事を書いてから1ヶ月近く公開できずにいました。
私が書いていいのだろうか?と私の自我が恐れていたのです。
この記事は私が真実に留まりながら溢れてきたものだから、
うまく説明できていないとか、わかりづらいとか、真偽の程はわからないじゃないかという自我の声に耳を傾ける必要はない。
そうわかってはいても、これを「みさちゃん」の知り合いが読むと思うと、自我が前面に出ざるを得ませんでした。
そして、公開する前に確証が欲しいと思っていました。
そして先日、図書館でニームカロリババの「愛という奇跡」を借り、一番最初に開いたページがこれでした。
マハラジはその力を帰依者には伝授しなかったようです。
たぶん、シルディ・サイ・ババと同じように感じていたのでしょう。
「迷子になって欲しくないから、私は力をあたえない」とシルディ・サイババは言いました。
マハラジは私たちに、いかなるシッディ(奇跡)やヨーギの力よりも、もっと基本的な事を教えたのです。
それは信仰と慈悲の心、神のリアリティを受容する態度でした。
ー 愛という奇蹟―ニーム・カロリ・ババ物語
ここだけ抜き取ってもわかりづらいかと思いますが、本を読むと、マハラジ(ニームカロリババ)が、どれだけ帰依者たちに、シッディを口外するなと強く言っていたかがわかります。
その伝授は行わなかったけれど、マハラジは祝福を与え続けました。
シッディを見せなくてもマハラジの持つ真実の力に引き寄せられる人は引き寄せられ、
時にはマハラジの罵倒が神の世界への入り口になり、
時にはマハラジの冷たい態度が帰依者の心を変容させ全てを変えてしまいました。
と同時に、マハラジはある種の力を求める人びとがいることも承知しており、彼らと楽しく戯れる事もありました。
と続きますが、私がこのマハラジの在り方を解説するのは、
マインドを強化して真実から遠ざけてしまう野暮な事ので割愛します。
私は、ただ伝統を否定する人も、
「だから瞑想は必要ない」という人も、
この感覚を知らずマインドレベルで議論しながら「伝授は必要ない」という人にも同意しません。
アサナも、プラーナヤーマも、瞑想も、究極的には必要ありません。
私はディクシャが全ての人にとって必要ないとは言っていません。
「私はエネルギーの伝授をしないしオススメしない」と言ったのです。
ディクシャの長所も短所も知っているからです。
マインドレベルでさまよっている人には、
ディクシャを受けてマインドを超えた世界を知る事も幾生もの輪廻転生の中では役に立つかもしれません。
でも、あなたが今いくらマインドレベルでさまよっていても、
直接真我を求めることも可能です。
過去数世紀の間には難しかったのかもしれません。
しかし、我々はすでに輪廻転生を重ね、物理的にも何世紀にも渡り意識を進化させ続けてきました。
仏陀やキリストは、2000年以上前に存在したから稀有な存在だっただけです。
私たち現代人の可能性は、その意識レベルに留まりません。
彼らの境地すらを超える、真我そのものに至れるのです。
自我は、ディクシャを欲しがるでしょう。
自我は、本物の神通力(シッディ)が自然に現れてくる事よりも、「私はディクシャを受け、凄い人と繋がっている」という外面が欲しいだけ。
自我は、自我自身が死んでいく本物の真理なんて受け入れたくないんです。
本物のシッディは、真理に近づけば、自然と身につきます。
でも他者に与えられても、真理には辿り着けません。
多くのディクシャを受けて尚、何世紀も彷徨っている魂たちがその証拠です。
だからこそ、それを受ける事以上に大切な「本当のあなた」という真実を直接体現して欲しいと願っているのです。

グルを通してしか悟れない、というのはある意味で真理です。
でもそのグルは、外側にいる「誰か」や「何か」の事ではなく、
私のうちにある、真実の私、の事です。
内側にいるグルのこと、内在神のことです。外側のグルは内在神あってのグルです。