魂の在り方と意識・感覚

非二元論(ノンデュアリティ)の矛盾

アドヴァイタ・ヴェーダンタ 不二一元論

インド哲学のうち、ヴェーダの権威性を認める正統派6派の1つであるヴェーダンタ学派。
その学派の中でも、インドで最も偉大な哲学者初代シャンカラチャリアが唱えたのが、
「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」不二一元論。

シャンカラの登場以降、仏教はインドでは廃れ、
皆がアドヴァイタ・ヴェーダンタを求めるようになったという。
(確か、この本にも書いてあった。→ シャンカラ

もう、かつて学びまくったインド哲学や、サンスクリット語、歴史的背景などの知識は無用。
と忘れていく一方だったけれど、

最近、
「本当の私」「私ではない私」「真理」という地点を感じながら、
そこから自然と起こり展開されていく現象世界を味わう。
という状態に留まるように意識しながら過ごしていると、

ふと、

「ア  ドォー ヴァイタ ・・・か」

と納得する瞬間がありその言葉を思い出した。

ドォー は2。
a は 否定。
ドヴァイタは2つある事。デュアリティ。


ブラフマンのみが真実であり、根本である。

このブラフマンの領域においてのみ、ノンデュアリティは成立する。


全てはノンデュアリティから展開された、ノンデュアリティの現れにすぎない。

よって、ノンデュアリティであるブラフマンが展開(unhold)された瞬間、

それをノンデュアルで語ることはできない。
全てがブラフマンの現れであり、
どこを切り取ってもそこに根本原理は存在するが、

それを捉える意識も、
それを表現する言葉も方法も、
全て根本原理が展開された次元での話。



認識される事ができない

ほとんどのノンデュアリティ(非二元論)を説明している人の表現は、
デュアリティの次元を越える事ができていない。

ブラフマンを捉えていないから、

観察している意識自体が、ブラフマンに滞在せず、
デュアリティの次元から、ノンデュアリティを説明しようとしているからだ。

知る事ができるのは、自らがノンデュアリティを体験する事。

ブラフマンを体験する事。

そうすれば、この世界の真実が、その場所がノンデュアリティであっても、
その展開された先の世界の現れを、
バラエティ豊かな、「多数」の世界を認識する事ができる。

根本を知りながら、
多を経験する事が可能になる。


根本を知っているので、

不要な論争にはまらなくなる。



マインドのレベルで議論し続けても、

永遠に、バリエーション豊かな「多」の世界から逃れることはできない。


マインドフルな意識では、
ノンデュアリティを捉えることはできない。

マインド自体が、展開された世界のものであるから。


まずはマインドフルでも良いでしょう。

その後は、マインドを超えて深くうちに入りなさい。

マインドを超えてもまだ、「認識される対象」はなくならない。


見るものと見られるものの差がなくなったとき、

「私である」と認知される対象がなくなったとき、


そこには本当の「私という存在」に留まる事ができるようになる。

「私」だと思っていた、認識される対象がなくなり、
「真実の私」のみになったとき、
認識の対象となる私は存在せず、
純粋に、この世界を見る事ができるのだ。

そして、「この世界」の中に、認識される対象である「私」も含まれていたことを知る。

それは、「真実の私」とは異なり、
ただの対象物なのだ。



詳細は、動画で話してみます。




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