過去の記事に書いた事は今感じていることとは全く違う
こうして記事を残していると、過去の私が思っていたことに対して、「そうだよね」とも「違うよね」とも言われる。それは仕方のないことだと思うんだけど、過去の記事を読んで自分自身が今でも同じように感じる事もあれば、全く共感も納得もできない事もあるから、その感想はあくまでも、「その記事に対して」であって欲しくて、「記事」と「今現在の私」を同一視しないでほしいなぁ(笑)
昨日書いた文章に、今日の自分は全く共感しない、という事だってある。
どちらかというと、私はそうで在りたいと思っています。
次の1秒で、今と全く違う認識や感覚を持てるほどの変化が起きるとしたら、そんな素晴らしくワクワクする事なくない!?
走馬灯
少し前、突然自分の人生(2500年前の過去生を始める前の魂会議からいくつかの過去生の断片&今生)が走馬灯の様に一瞬で蘇ったことがあった。
過去生に関しても新しく「思い出した」ものではなく、そもそもこの人生でいつも「知ってた」事で目新しさはなかったんだけど、それはこの人生の記憶も同じことで。
一つ前の前世を覚えたまま生まれてきて、この世界に馴染むのに違和感があった幼少期
10歳で[神]を感じてから自然の声が聞こえることが苦痛になり、感覚を閉じた15歳〜20歳の暗黒期。その後のスピリチュアルや修行の体験。同時に、幼少期からの、現世を思い切り楽しみ苦しんだ「普通の記憶」。
修行の世界を離れ、仕事に没頭した30代前半と、「役目」や「使命」を手放して、ただThe universeと、Life、「種」を信頼して楽しんだ30代後半。
↓この記事に書いた内容が、ちょうど35歳。
多分、過去を封印してたわけでも押しやっていた訳でもないけれど、今に必要がないからすっかり忘れていた。
なぜなら、先ほども書いたように、私は「次の一瞬で私の認識も見える世界も全く変わってもいい」って思ってたから。
で、ブログを読んで過去を振り返ろうとして気付いた。ブログには、大事な体験については全く書かれていないなって。
まぁ、縁があって「話す」「聞く」という共同創造が生じる時に、そう言う話を聞く機会があるのが縁というものだよね。
パラレルワールド
パラレルワールド、並行世界、という用語にどういうイメージを持っているか。
実は人それぞれ結構違う認識を持っていると思う。
私は、いわゆる並行してある世界という認識ももちろんあるけれど、線じゃなくて無数の点で存在するというか。点在する、無数の可能性ってイメージかな。
物質次元で考えても、私は大きく変容する時とか、自分を大きく変えたいと思う時、
「今いるステージから見える(考えうる)最良のバージョンの自分は、あくまで今いるステージから到達可能なバージョンでしかないよね。でも、それ以上の変化や可能性を望むのであれば、ステージを変えなきゃ」
と、若い頃から思っていて、そうしてきた。
人によっては、今いるステージの可能性の幅がそもそも大きいから「ステージを変えなくても大きく変われる」という事も、もちろんあると思うんだけど、
あくまで、私が認識してる私の(物質次元のいわゆる普通の)人生では、そういうステージを変える事のできるタイミングで、思い切ってステージを変える決断をしてきた事が、今に続いているんだな〜って思える。
具体的にいうと、日本でヨガを教えている頃、自分の「教え方」に対して、まだ抽象的なイメージでしかなかったけど、当時生徒さんと向き合って教えてきたやり方とは全く違うやり方で伝えていきたい、体現していきたい、という感覚が芽生えた。そして、それは、教室を続けて教え続けるという形をとり続ける事では到達できないと思った。教え方はどんどん変わり成長していくとしても、目の前に常に「成果」として出さなきゃいけないというか、成果として出る形に落とし込むことで、失われてしまう可能性が沢山あると思ったんだよね。あ、あくまで “その時”の” “私” にとっては。
だから、私は軌道に乗ってきていた教室を「閉める」という決断をして、ステージを変えることにした。
そのまま続けていたら、面白い人達にもっともっと出会って活動の場も広がって、楽しかったかもしれない。満足感もあったかもしれない。
でも、今の私は、あの頃の自分が求めた「教え方」をできていると思っている。
あのまま続けていたら、私は、
「自分が」教える。「自分が」導く。「私が」誰かの癒しのプロセスをサポートする。「私が」あなたの可能性を開く手伝いをする。
っていう意識を手放すことはできなかっただろうから。
これは魔術だったのだと今はわかります。だから私の先生には忠告された。
天気を動かす時と同じように、ちょっと力を使っちゃってたんですよね。私は。
生じるものを生じるがままに
ここでも書いた様に、瞑想は、するものではなく「起こる」もの。
私たちは、瞑想しようと思って座るし、最初の数回、能動的に呼吸をする。
でも、呼吸が自発的に生じるように、瞑想も自発的に生じる。私たちは、それをただ「見ている」だけ。
それと同じように、癒しも、気づきも、適切なタイミングで、適切な時に、適切なだけ、「生じる」から。
自分のことも、誰かの事も、コントロールする必要はない。
でも、私が、(望む周波数に)「調和」している必要はある。
誰かの言葉や存在がトリガーになって、気付きや癒しが起きる事があるでしょう?
グルの恩寵の事を話せる友達も、ヒーリングの事を話せる友達も、いつも私に気付きや癒しを与えてくれる。彼女たちが意図的だろうとそうでなかろうと。
でも、全然そういう話をしない友達も、全然知らない他人も、ちょうど良いタイミングにちょうど良い気付きや、必要だった情報を持ってきてくれる。
だって、私に起こる気づきも癒しも、その時に必要だった情報も、私が望んだから「私のために森羅万象が」用意して運んでくれたものだもの。
同じように、私が誰かといることで、そこに癒しや気づきが起こる事がある。
でもそれは、「その人が」望み、自らに癒しを起こす用意をしていて、その波長があったから、それが生じた事なんだよね。「その人が」「その人の為に」望み、それに宇宙が応えた。
そういう共同創造の波動の世界を楽しんでいるし、
あんまり意識の話とかしなくても、私の波動に気づいてその後の意識の変化を教えてくれる人もいるから、本当に面白いなって思う。
あ、今はパラレルワールドの話ですね。
こういう、物質次元の「ステージを変える」というイメージと同じように、波動の世界にはもっともっと多様なバリエーションがあるからそのステージを変えればいい。
バリエーションは、ネガティブなものからポジティブなものまであるし、私が天才で難しい数式を使ってこの世界を解き明かそうとしているバージョンもあれば、バスに乗って毎日同じ会社に行き9時-20時の仕事を真面目にこなせる世界線もあれば、カフェの週2店員のバージョンもあれば、海外ノマドしてる世界線もあれば、年収が10分の1しかないバージョンも、年収が10倍あるバージョンもある。
1秒後にくしゃみをした後に展開する世界と、1秒後に出そうになったくしゃみを我慢した後に展開する世界は、別物。
はい、ここ重要。テストに出ます。
この世界の可能性の話をする時に、どうしても制限をつけたくなっちゃうのが人情ですが、1秒後に頬をかく世界線と、1秒後に耳をかく世界線は全くの別物なんですよ。そしたら、どれだけの可能性(バージョン)があるのか、って話だよね。
でね、これ「世界線」とか、「並行」世界とか書いてるから「線」のようにイメージしちゃいがちなんだけど、全て「点」で実は繋がってないんだよね。
繋げているのが、私たちが持っている概念とか記憶。私たちの「個我」なのです。
だからその繋がりを手放す
前世の記憶って特別視されがちだけど、5年前の私と、50年前の私なだけで、全然特別じゃない。(私は今、40歳です)
ただの、自分の「記憶」。だけど、5年前の事はよく覚えてるけど、1歳とか3歳の時の事はほとんど覚えてないじゃん。時々、感覚を思い出すことはあるかもしれないとか、そんな感じ?
なんなら、最近の私は1年前の記憶も怪しいですけどね。
でも、それでいい。だって、「前に私はこう感じていた」「前の私にはこういう特徴があった」とかいうものを持っていたら、それに繋がりうる(整合性の取れる)「可能性の点」に繋がっちゃうんだもん。
だから、ポイポイと手放していたんです。
捨てるわけじゃなく、別に、握っていなくていい、って話。
だからさ、忘れるよね(笑)
記憶もホールドしてないと消えていく。
で、ここで冒頭に戻るのですが、これらの私の「過去」の記憶は、消えていたわけじゃなくて、普段意識してなかっただけで、ちゃんと「私(個)の体験」として、あったんですね!!
別に、あってもなくても良いんだけど、それが走馬灯の様にブワーって蘇ってきた時に、
体験してきたこととか、みんなと交わした言葉やエネルギーとか、そういう全ては、ちゃんと私の「糧」となって今もあって、必要な時にはその「智慧」は出てくるんだな〜って思ったの
あれ?今も別にそれをホールドしてる必要ないって思ってるから、感動が薄れちゃうけど(笑)
多分、あれが起こった時にはその力と気づきが必要で、それで、今の状態に対する理解と、「空」に対する認識が言葉の次元になってきた。言葉、つまり、形を持てるフォームに。形ってフォームか。言葉難しいな。
過去の私と今の私は違う
ここまで書いておいて、どうやって空とアカシックレコードと、全ての可能性の存在するポイントを説明すれば良いか、切り口に悩むのだけど、おいおい書いていく。
さっきも書いたけど、過去生って特別なものじゃない。
過去生がちゃんとある人にとってその過去生を否定というか、「そうじゃない可能性」があると言われることって心地よくないと思うのだけど、
過去生を覚えたまま生まれてきた同志だと思って耳を傾けてほしい。
私たちの意識は、全て繋がっていて、私の記憶も誰かの記憶も混ざってるの。
私が体験したことは、この宇宙が体験したことだし、
「主に過去生の私が」体験したことでも、「他の魂にも」その記憶の波動は共有できるのね。
「あの時の自分」を否定する必要はない。魂の一部であることに間違いはないから。でも、保持する必要もない。
あの時の自分、を認めつつも、そうじゃないかもしれない可能性を受け入れても良いんじゃないかな。
そしたら、今の自分と距離ができるじゃん。
もし、その時の自分が枷になって今の自分に繋がっているのだとしたら、手放して良いよね。
もちろん、じっくり向き合ってそこから学べることはあるから、じっくり向き合いたい時にはしっかり繋がって体験から学べばいい。
でも、いつもいつもその時の延長線上で生きてる必要はない。
過去生も「過去」も私にとっては同じ、過去の「ライン」。
過去生を持ってる人も、持ってない人も、同じように、「過去の自分」の延長線上の世界を続ける必要はない。
過去の自分から引き継ぎたいものだけを引き継いで、全然違う可能性の「点」に行っていい。
1秒前の自分と、今を繋ぐ必要はない。
ここ数年、そういう可能性を自分自身に許してる。
特に、嫌な気持ちになった時とか、嫌な状況に陥った時に、一回立ち止まって、もう一度確認する。
1秒前の自分と今には何の関係もないことを。
そしたら、5秒前の自分には生じなかったアイディアとかやる気が10秒後に生じる世界になりうる。
突然、知らない人から、5秒前の自分の世界にはなかった可能性を持ち込まれることもある。(私の場合、この個我と真我の違いについて説明する翻訳の仕事を、私がそんな話を好んでしていることを知らない人から依頼されるとか)
そういう過去との繋がりの(ほとんど)ない理想の「可能性」のある世界を許可した途端、転んで怪我したり、パスポートが失くなったりしても、それは、そういう「理想の世界を可能性として含む世界」を許可した結果に繋がって起こったバージョンの世界だから、自分が選んだ波動であるならそれでいい。
どうせ点を移るなら、「今まで」に繋がってない点を選んでいい
意図はする。その為に行動しようと思ったならそれもする。
「あっち行ってみよう!」って思ったら、行ってみれば良い。行動しないということじゃない。
「あの子にこう言いたい!伝えたい!」って思ったら、伝えればいい。何度も言うけど、何もするなと言うことじゃない。
「このプレゼント、あの子が喜んでくれそう!あげたい!」って思ったら、プレゼントすればいい。
でも、その行動の結果に執着しない。
自分が、自分とユニバースの波動に同調していて、その同調が、その行動を起こしたのなら、その行動の結果に執着しない。
でも、その結果が期待していたものと違って、「自分が」嫌な気持ちになったり、悲しくなったら、その自分の気持ちを大切にすればいい。
そんなふうに、自分の欲しい可能性の世界「点」が次々と展開していくことを楽しんでいたら良いかな〜って最近は思っています。
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