魂の在り方と意識・感覚

本質だけでそこにただ存在すればいい


肩書きや、
何をしてきたか、
何をどれだけ学んだか、

を言わないと伝わらないって良く言われがちな事だけど、
言わなきゃわからないのは相手側の見る目の問題でもあって、
本質を見る人には何も語らずとも伝わるから自分にラベルを貼る必要なんてない。

むしろ、相手が厳選されて望むレベルの友人に囲まれる。

ヨガやスピリチュアルやエネルギーの事を語るなら尚更。

わざわざそういう「外側」を言葉や、態度を取り繕って「showing」しないとキャッチできない人はまだエネルギー的な視点が成熟していないという事。

でも、この事を頭に入れておく事でその眼鏡を外してエネルギー的な視点や波動で物事を見れるようになるかもね、
て事で書きたくなかったけど最近よく話すので書きました。


瞑想はなぜ基本的に結跏趺坐(ロータスポーズ)なのか。

エネルギーの流れがそこにあるから。
その姿勢は作るものでも保つものでもなく、自然と「保たれる」のです。

エネルギーの流れを身体で感じる事で、自然と体がそのエネルギーに沿うように適切な位置に置かれる。
背筋をすっと「伸ばしている」うちは、瞑想状態に入ってはいない。

行為ではなく状態としての「瞑想の状態」になる時、自ら行う事は何もなく、姿勢の保持も呼吸も能動的な行為ではなく自発的なものになり、体の緩みとエネルギーの調和が深まるのに合わせて肉体の姿勢は変わっていくが、その肉体のポジションによって更に意識が深まりエネルギーと調和していく。

コレが、本来のアサナの段階。

ちなみに、エネルギーの位置を感じてその位置に合わせれば、寝転がるよりも楽にだらけた(寛いだ)状態で座り続ける事ができるし、疲れない。

私はもう何年もふざけたくらいにアサナの練習をしていないし筋力全然ないけど、アシュラムで頑張ってプラクティスしてる何十人もの中で片足立ちとか、一見筋力が要りそうな姿勢とかとってもピタッと微動だにせず保ってて大抵クラスの後に色んな人に「Woww, your posture was great !」って言われるけど、ポイントは「意識の使い方」。

筋トレとアサナは違う。

数年前、体調不良が長く続いてて、瀕死状態で筋力ほぼゼロって言いたいくらい弱ってた頃でさえ、週末に逃げ込んだリシケシのアシュラムでは、自分でも信じられない位にピタっ、ピタッとアサナを保持していた。
外側の筋力は(それ程)関係ないんだ。
使い方次第。

結跏趺坐で瞑想の「状態」を体験出来るようになれば、今度はどんな姿勢であっても、その「状態」に入る事も出来る。
応用が効く。
でも、1番楽であり、パワフルなのが、結局、結跏趺坐なんだよね。
エネルギーがそのように循環するから。

チャクラを語る事も、エネルギーを語る事も、伝えたい相手が知識と言葉と「ラベル」しか見ない人達であれば、知識を増やし、言葉を増やし、ラベルを色付けしていけば、多くの人に届くでしょう。
でももし、自分が目指しているのが「それ」ではないのなら、自らがラベルを外し、その奥の本質を見ようとしなければ、
自分に必要な道がわからないし、
自分に必要な師や本当に分かり合える仲間が目の前にいても貴方は素通りするでしょう。

ヨガは万人に開かれているのに、その門をくぐれる人がほとんどいないのは、
その門を見ようとする人がほとんどいないから。

汝狭き門より入れ。
滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。
生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし。

マタイによる福音書

汝、狭き門より入れ


「汝、狭き門から入れ」

ヨガの事だけじゃない。
聖書の言葉は宗教的な事でもない。

どの分野の事をするにしても、「本物」そして「本質」を求めれば、必ずそこで分かり合える人たちに出会える。

「クラスのみんなと仲良く」するのが目的だったら辛過ぎるし、同級生や狭い世界の中で探しても孤独なだけかもしれないけれど、世界を広げてみれば、その「本質」を持ってるからこそ、他に何もなくてもただその1つのトピックだけで深い安堵感を得るような魂の仲間だと思える人達に出会える。

むしろ、そこが共鳴しない人とは表面的な付き合いで済むから悩む必要ないしw


オススメなんだけどなー。



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