魂の在り方と意識・感覚

やる気・目標の原動力こそがアイデンティティでもあった-目覚め

私は誰か

約1年前に急にそれが明らかになってからというもの、
それまで「私が私たる所以」であったものがなくなってしまった。

私は、この個人ではではなく、
全てを認識している主体である。

みさではないし、過去の記憶が積み重なったものでもないし、周囲によって認識されている人間でもない。
一般的にアイデンティティと言われる、自我と言われる「私が私たる何か」は、全て私ではないのだと全く明らかになってしまったのだ。


私は、夢みがちな人であった。
理想を追求し、大きな夢を見ながら、ほんの少しでも良いから夢の方向に向かって何か行動できていること。そんなことがささやかながら自己肯定感に繋がり、「私」を支えていた。

できない事や、弱い部分はたくさんあるけれど、

夢には遠く及ばなくても、
理想を描けること、そしてそこから目を離さずにいられること、

その事が、私としての誇りであり、私という人物の核を為していたのだと思う。


だからこそ、

今はまだ形になっていなくても、歩き続ければいつか必ず花開く。

そう信じることもできていた。


けれど、「私」はこの個性を持った一個人の事ではないということが明らかになって以来、

それまでやりたかった事や、目標としていた事も全てなくなってしまった。

そうは言っても、私には記憶があり、「みさ」がやろうとしていたこと、目指したかった未来を知っている。

だから、それまでと同じ方向を向いて歩こうとすることはできた。



・・・でも、そこに湧いてくる思いがないのだ。

悟りは人を無気力にするか?

いわゆる悟り世代や、一般的な無気力な状態が悟りとは程遠いという事は、これを読みに来ている人たちには説明の必要もない事でしょう。
(たまに悟り世代の無欲さが本当に悟りに近いと思い込んでる人たちがいるけど、全然別物です)

実際に私とは「これまで認識していた私ではない」と気づき、
アイデンティティを全て失った場合に、無気力な状態に陥る事は少なくない為、
このテーマについて知りたい人は一定数いると思う。

けれど、その情報がないのです。


だから書きます。


通常、私たち人間は、不安や欠乏感、「何かしなければいけない」という焦燥感が原動力となり突き動かされます。
世の中に変えなければいけない何かを見つけ、それを変えることで自身の心が満たされる。

不足感があるからこそ、それがポジティブに変換されることで夢が描かれ、前を向いて歩く原動力になるのです。

楽しい、ワクワクする、という感情ですら、個人のアイデンティティを形作っている。
花を見て美しい、その花を見ることができて幸せだなと思う人もいれば、
ペットと戯れることが幸せな人もいる。
花を美しいと思っても、ペットを可愛いと思っても、その対象物に対する関わり度合いは人によって違う。
そういう感覚の強弱が、対象物との関わり度合いが、アイデンティティを形成しているのです。

でも、私はアイデンティティとは一切関係がないとしたら、

一体私は誰で、何を好きで、何をしていると幸せなのか?


それが、わからなくなるのです。


これまで知っていた私にヒントはありません。
これまで知っていた私の好きなもの、やりたかったことと、「私」は一切無関係なのです。


このような状態の時に、空白が生じるのは自然な事です。

この時、エゴの視点から見ると、「やる気がなく」「無気力」にみえます。
何も生産的な行為を行わず、
「前に進んでいこうという意思」が見られず、
ただそこに存在し、ただ時間が過ぎていくのを見守っている。

私たちの世間の価値観から見たら、無価値な過ごし方に見えます。


でも、「目覚め」ている意識は、それこそが大切な経験だということに気づいています。

焦燥感や、不足感から行為が起こらないことを見守ります。

起こるべきことが起こり、怒らないべきことはただ起こらない。
波が満ちてはひき、時に高まり、時に静まる。

目覚めている意識は常にそれを観察しています。

でもイライラしたり焦ったりするでしょ?

はい、しています。

ボールが飛んできたら咄嗟に手が出て頭を守るとか、
転びかけたら手が前に出るのと同じように、
理不尽に思える言動をぶつけられたら不快に思うし、
小さなイライラはスルーできていたって、何度も何度も言われたら感情のキャパシティに限界だって迎えます。

でも、それらは「真実の私」ではないのです。
アイデンティティ、パーソナリティなのです。

個人としての私、肉体を持って生きている私を認識しているのが、本当の私なのです。


だから、個人の私が忙しかろうと、暇を持て余してようと、本当の私には変化がありません。
同じように認識し続けているだけです。


この「認識している意識」が主体になることで、パーソナリティが影響を受けます。
だから、肉体を持った個人としての私は相変わらずここに存在しているけれど
以前はもっと反射的に持っていた感情や感覚に、違和感が生じてくるのです。

それは、本当に好きな事だったのか?
本当にやりたかった事なのか?
本当にやりたくなかった事なのか?

以前から変わらないパーソナリティも表に出ることもあれば、
以前とは全く異なるパーソナリティが表出することもあるのです。


そして、エゴはその過渡期に戸惑います。

慣れるまでの期間は人によるでしょう。


私の場合は、2週間〜4週間ほどは、ほとんど記憶にないくらいにただ至福の中にいました。
パーソナルな私さえ、すっかりその至福に平伏し、なりを潜めていたような感じ。

空っぽのようで、空っぽじゃない。
自分が「満たされている」のではなく、「私」が宇宙の全てを満たしているのです。
「私」が森羅万象全てに満ちているのです。

そんな感じ。


少しずつエゴ(個人としての私)が戻ってくると、
「こんな空っぽじゃいけない」
「こんなに何もしないでいてはいけない」
と囁くけれど、

私はわかっていました。
この過渡期とも呼べる時間は、自然とエゴと調和の取れるポイントへと落ち着いていくことを。

今は全てが自然に起こるがままに任せよう、そして、そうあるべきだ、と。

これほどの吉兆はないのです。
エゴとしても、「できることならこの機会を逃したくない」という思いがあった。
エゴは「いやいや、動き出さなければいけない。いつまでニートしている気だよ!」と言ったり
「いやいや、でもこんな体験をしていられる時間は貴重だから、できるだけ長くこの状態が続くようにした方がいい!」などとあれこれ考えます。

けれど、「私」はそんなエゴの声は全てどうでも良いのです。
エゴが賛成しようと、反対しようと、どちらも正しくないのです。

私が知っていたことはただ、全てが起こるべきタイミングで起こる、ただそれだけです。


だから、急に「インドでもう一度働こう」と思った時には、静寂が壊れることを懸念することなくすぐに行動したし、
その他のことも、思いついて行動する気になった時にはするし、そう感じない時には、いくら「やるって宣言しちゃっていても」やらない。

ただ、その瞬間、その瞬間の成り行きに任せました。
成り行きに任せる、というと外部要因に任せるように感じる人がいると思いますが、全く違います。
全ては、私の内側に生じることに(生じないことに)身を任せて委ね切っていただけです。

最初の数週間が過ぎると、そこからはエゴが少しずつ人格を取り戻してきました。
一年かけて、じわじわと。

まぁ、自然とゆっくり変化できてきたかな、と思います。


ただ、最近はしっかりと戻ってきた私の人格(パーソナリティ)が驚くことが多いです。

好きだと思っていたこと、
嫌いだと思っていたこと、
やりたいと思っていたこと、

夢、

が、私の中に存在していないことに気づく場面が多かったからです。


それでも、その事に焦りや不安は感じませんでした。

空白(何も存在しないこと)はエゴには違和感を覚えるものでしたが、空白があることの尊さを私が知っていたからです。


そして、タイミングが来れば、忙しくなるだろうことを予想していました。

今はまだ何もなくても、今はまだ何も見つかっていなくても、
私の内側に生じた行動の種が外の世界に広がっていく時、やるべきことがやるべきタイミングで目の前に表れる。



この一年、ずっとただそう思っていましたし、
この新年も、「今年の目標」なんて何もなく、ただ真っ白な「2022年にやりたいこと」リストを満足げに眺めていました。

そして、この記事を書き始めました。

真っ白です。終わり。

のつもりで書き始めたのです。

コロナ陽性で高熱で寝込んでいる間に

ところが、記事を途中まで書いたあと、高熱で寝込みました。

倦怠感が続き、何もできない億劫な日々の中で、急に気になることが湧いてきて、それについて調べるも
「何かが違う」
としっくり来ない日が続きました。

でも、やっぱり気になって、また調べる、ということを何度か繰り返すうちに、とある情報に辿り着いたのですが、
そこから、不思議なことが起こりました。


この一年、私の中には「これがやりたい!!」という熱い情熱はなかったのです。
先週書いていたこの記事だって、どれだけ冷めた文章だったことか。

元々、熱い情熱をいつも秘めていた人間ですから、自我はこの一年戸惑い続けていました。
こんなにも、情熱のない「私」を自我は見たことがなかったから。

鬱だったり、無気力だった頃でさえ、もっともっと「変わりたい」「なんとかしたい」ともがいていました。

この一年は、無気力にしか見えない時でさえ、満足してしまっているのです。
変わりたいとか、変えなきゃいけないなんて気持ちがなかったのです。

エゴがこの「熱くない」私に時間をかけて慣れてきていたというのに、
今度はワクワクが止まらないのです。


そして、その情熱は、エゴから見たら到底不可能で、非現実的な目標に思えます。

私なんかにできる訳がない、と最もらしいことを言います。


でも、私にはこれが今やるべきことだとわかっています。

「できるか」「できないか」「完成させられるか」「完成しないか」はどうでもいいのです。

カルマヨギは、行為の結果に一喜一憂しない。

その言葉がよくわかります。
自分のエゴに教えてあげたい言葉です。

だが、自己の本性を知って
それに満足し 歓喜し
それに安んじ 楽しむものには
もはや為すべき義務はない

そのような人物にとっては
行為して得る目的もなく
行為せぬことによって失うものもない
他の何ものにも頼る必要がない

ゆえに仕事の結果に執着することなく
ただ為すべき義務としてそれを行え
執着心なく働くことによって
人は至上者(神)のもとに行けるのである

(中略)

バラタ王の子孫よ 無知な人々は
果報を求めて仕事をするが
賢者は何事にも執着せずに活動する
それは世間の人を正道に導くためである

(中略)
プラクリティ(物質自然)のトリグナ(3性質)による活動を
我質の雲におおわれた魂は
自分自身が活動しているものと錯覚し
「私が為している」と思い込む

だが剛勇の士よ 真理を悟った人は
感覚が対象を求め また満足するのを
プラクリティのトリグナの作用だと徹見して
決して自分の仕事に執着しない

_ バガヴァッド・ギータ 神の詩 / 田中 嫺玉 訳 より

というわけで、できるかできないかは置いておいて、とりあえずやってみようと思いますし、
できなかったらできなかったで、その結果も受け入れてその時に何を思うか、
どんな別の道が見えてくるか、
未知の未来を楽しみたいと思います。


最後無気力じゃなくなっちゃったけど、

無気力も大事だということを伝えたかったです。笑