私のレッスンは、けして安くはないと思いますが、
高くもないと思います。
私自身はもっと高くていいと思っています。
なぜなら、他にはこれを教えられるヨガ教師はそうそういないと思っているからです。
ただし、商業ヨガではないヨガの世界の中で、私はまだただの入門生にしか過ぎません。
「汝、狭き門より入れ。」
この言葉の意味をずっと感じています。
狭き門より、皆さんも入ってください。
霊性を高めることしか教えられません。
それはあなたの顕在意識が求めているあれやこれやといった知識欲を満たすことと一致はしないかもしれません。
(往々にして一致しません)
私も未熟だし、私のエゴを満たしたい時(知っていることを知らないのかと思われるのが嫌というエゴ)には、求められているものを与えてしまう時があります。
言った方がいいのか、言わない方がいいのかわからない時もあります。
でもどちらにしても、
私のエゴが出ようが出まいが、
それがその時私に必要な体験で、相手にとっても必要な体験であるに決まっているので、あまり気にしません。
が、多分生徒さん(というよりまだ?生徒になっていない人)のほうは気にしてるんでしょうね。
グループレッスンは安いのに、プライベートは高いです。
なぜならば、その方一人の魂と向き合うからです。
レッスンは90分~120分かもしれませんが、これはその時間だけのものではありません。
レッスンを受けている人にしかわからないかもしれませんが、
レッスン中、レッスン直後に認識しているものなんかよりも、
帰宅後や翌日、どんどん意識が変わっていきます。
そして、それをフォローしています。
エネルギーを相当要します。
プライベートレッスンの価値がわからない人(お金払いたくない人)には、
これだけのエネルギーを使い、お互いのカルマも解消していかないといけない難題に付き合うことは出来ません。
それでも私のドアをノックしてくれた生徒さんへのフォローは極力しますが、
正直「通ったことのない」方への精神的フォローはできかねます。
ヨガについてブログ以上に知りたいのなら、ちゃんと通ってヨガを受けてください。
そして続けて下さい。
言葉で説明ができるような浅いものは提供しておりません。
言葉は、ブログで伝えられます。
会っても言葉としてはそれ以上伝えられないかもしれません。
(文字を超えるものは当然あるけれど)
なぜなら言葉は氷山の一角で、レッスンで伝えているのは氷山まるごとだからです。
それをおぼろげながら感じていけるかどうかは、生徒次第です。
もちろん教師にも責任はありますが。
今までは、私は生徒さんたちよりも若い未熟者だから。
とか、
教師としての責任とプライド(誇り)を持っていたいけれど、
この日本においてそれを堂々と有することは、「悪いこと、非難されること」だと思い
「ダメな私」
を演じてきました。
でも、それは「生徒さんに対して教師としての責任を持って向き合う」事から逃げる言い訳にもなると思います。
別に、頭を下げたくない人は下げなくていいです。
特に、私のところへは絶対に頭を下げたくないと思う人は、それでいいと思います。
他の頭を下げてでも教えをこいたいと思う方のところへ行った方が絶対にあなたのためになります。
それに対して、私は何も思いません。
本当に安心してください。
魂のグループにも個性があります。
私は私のいるべきところにいます。
あなたはあなたのいるべきところにいてください。
そうすれば、他で学び成長していくあなたと、
こちらで学び成長していく私と、
会ったときなどにお互いを高め合えることが出来るでしょう。
私には、既にそんなふうに「少し属するところの違う」ヨガの仲間がたくさんいます。
あなたがそんな仲間でいてくれたら嬉しく思います。
ただ、多くの生徒さんや通わずに相談メールをくれる方達を見ながら、
どうして私はインドで(も日本でも)、師と呼ばれるハイスピリチュアルな方々に教えてもらう機会になぜか恵まれていくのか、
他の、私よりずっと「ヨガの勉強している」インストラクター達と同じ道を毎日行き来しながら、
同じ道沿いで地元のリスペクトを集めている人たちから私だけ「教え」を伝えてもらえたのか、少しわかる気がします。
それは、世界を極めたスポーツ選手や、
本当に仕事のできる人たちが言っていることにも共通していると思います。
巷には、あなたの霊性を自分と同じレベルに留めておきたいティーチャーやヒーラーが数多く存在します。
彼らはあなたの霊性が高まってしまうと困るのです。
なぜなら自分がその先へと成長できていないことを知っているから。
そういう教師やヒーラーに出会っても、その認識があっても、心から頭を下げられますか?
私は、心からひざまづくことができます。
なぜなら、私が一番求めている霊性に関しては、あまり持ち合わせていないかもしれないと思っても、
今の私に大切なことを教えてくれる有り難い存在であることには違わないからです。
(もう、日常の中で本当に大っ嫌いな人とかはまた別!彼らも有り難い存在であることには違わないけれど、私は「嫌だ!嫌い!」とハッキリ思っています。その前に向き合うべき対象がたくさんあるから・・・。ごめんなさい。)
必要な知識を与えてくれたり、知らなかったことを話してくれたり、
知らない世界を見せてくれたり。
完全に尊敬できるグルを求めて、それ以外の人には頭を下げたくない人は多いと思います。
けれど、私には、どの人の中にも、
どんな嫌いだったり未熟な人の中にも、
「グル」が見えます。
だからその人の持つ神聖(グル)に跪くことができます。
例え、私に呪いをかける相手であっても、深々と頭を下げて彼の「聖なる」部分に尊敬を送ることができたらいいなぁと思います。
それが私の課題であり目標です。
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