言葉が浮かんでこない
と言う表現は、今の私を表すのに適切ではない。
浮かんでは消えていくのだ。
全てが起こり、消えていく。
この場所だ。
9年前にこの記事を書いた時も、
私はこの場所を確かに感じていたけれど、
今の私に見えていることは、同じなのに全く違う。
自我が、砕け散ったのだ。
砕け散ったと言う表現すら、自我の感覚だ。
そして、今こうしてここで表現しようとすることすら、自我の協働なしには起こらないけれど、
その協働の仕組み自体も、あまりにハッキリと「わかって」しまう。
「かつて私だと思っていた私」は、「成し遂げよう」としていた。
あらゆる事を。
探求者としては、
どちらかと言うと「成し遂げよう」とするよりも、
手放して手放して、「それそのものが明らかになっていくがママにする」と言うスタンスではあったけれど、
社会的な個人としては、
「覚醒に近づく事によって、さらに”意義の在る”事を為そう」
という気持ちがあった。
さらに言えば、
探求者としても、
「手放して手放して、それそのものが明らかになる」と言う状態を獲得しようとしていた事がわかる。
それが、相対的には小さな事だとしても、
「そうしよう」と言うスタンスの先に、悟りは起こらない。
いや、それであっても起こるときには起こるだろうが、
往往にして、それは悟りそのものが自然と表れる事を拒絶してしまう事になる。
悟る為に「良い人」になる必要はない。
悟る為に学ぶ必要はない。
悟る為に賢くなる必要はない。
でも、浄化される必要が在る。
知識や概念、感情、思い込み、記憶、執着、価値基準などのマインドで構成される全てが、
ありのままに正しく観る事(=悟り)を妨げるから。
自由意志などない。
しかし、自我において自由意志は在る。
これがダブルスタンダードではなく、1つの真実に基づいている完璧な調和なのだけれど、
マインドの世界ではそれを理解するのは難しい。
「人生を良くしたい」「こうなりたい」と言う思いがあっていけない訳ではない。
そう言うものは、真実からも湧いてくる。
「こうしたくない」もまた真実から湧いてくる。
「こうして良いですか。この私の思いは真実ですか」
と言う問いに答える事はできない。
なぜなら、真実の現れ方は千差万別で、
1秒前の真実の現れた形ですら、現時点での意識が変わればその「フォーム」自体は不真実になってしまうからだ。
現れの方、現象がどう現れているかは問題ではない。
その現れの根本が真実かどうかが問題なのだ。
ムージジの「覚醒か怠惰か」と言うトークを訳したのは、
探求者が必ずぶつかる壁だからだ。
私たちは通常、あまりにも「行動」を過大評価していて、
「在り方」を軽視している。
マインドは行動を強化し、行動は更にマインドを強化する。
マインドの世界では、「不安」や「恐れ」が行動の原因となる。
中には、マインドの隙間をぬって真実の欲動が突き抜けて起こる動きもあるのだけれど、
探求者の自我が失われた時、
多くが一時的に、「何もない」と感じるのは、
それまでの根拠としていたものが全て消滅するからだ。
人生に目的はなく、
行動に目的はなく、
また、理由すら存在しない。
しかし、それを超えた動きがあり、
衝動があり、
消滅があり、
共同創造がある。
ユニバース、森羅万象と、私は同一であり、常に協働している。
「私(真我)」が「私(真我)」を表現しているのが、このユニバースそのもの。
その意識と共に、個我は協調して存在する。
その意識は普遍だが、個我と、現象は常に現れては消えていく。
私たちの本質は、サット・チット・アーナンダ。
自我が消える事は、自我が感じているような「無」や、悲しさや何もない場所ではない。
価値観の転換が起こる。
目的や理由の消失は、
世界に対する責任を放棄するものでもない。
むしろ、世界に対する責任を真に引き受け、その為に命が存在していると
疑いなくわかる事だ。
行動もなくならない。
全ては起こるべきタイミングに起こる。
個人としての私は、マインドの壁が分厚い人間だったのだと思う。
浄化により、マインドの中に存在する “ちり” や ”ほこり” は少なくなっていても、
知識を好み、ロジックを好み、「頭で理解する」ということに自信を持つ、強固な「アイデンティティ」があった。
もっと楽に手を放し、
真実に委ね、明け渡してしまえる人もいるのだろう。
そういう場合には、私ほど徹底した浄化は必要ないのかもしれない。
しかし、私には、強固に働いてしまう「立派な」マインドがあったからこそ、
真実の視座についてなお、マインドが鳴り止まなかった。
10歳の時に真実の座に意識がついてから、
実に26年も迷い続けてきた事が、
私という個人の自我の頑固さを物語っている。
マインドがそのギャップに苦しみを生み出してきたのだ。
マインドが苦悩を楽しみ続けてきたのだ。
垣間見ることと、マインドの現実との間で揺れること自体に優越感を生じさせ、
それゆえの葛藤を楽しんできたのだ。
マインドが信じていた「私が優秀だから」という幻想はどこにも存在しない。
まさに、「いはんや、貴方 をや。」
追記
読み返してみて、「いはんや、<悪人>をや」の意味を誤解されると、とことん意味不明になるな、と思ったので、私がここで言いたかった事を説明されている知恵袋の解説を貼っておきます。
つまり、私のような自我の自惚れにより霊性の道を先を歩いていると思い込んでいるエゴの塊のような者でさえ、それを手放す事ができたのだから、貴方のように柔軟な無執着の意識を持った方が悟れないはずはない、みたいな気持ちで「いはんや、・・・をや」と思いました。
<以下引用>
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13232273943
人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ“必ず救う”と誓われたのだ。
以上 参照:『歎異抄をひらく』より抜粋。
これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。
聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。
では聖人の「善人」とは、どんな人を言うのだろうか。
“善を励んで助かろう”“念仏称えて救われよう”と努める人である。
励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。
“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。 そのような自力におぼれている人は、自己の一切の思慮分別を投げ捨てて弥陀にうちまかせる心が無いから、弥陀の本願の対象にはならないのだ。
中略
だが弥陀は、そのような邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心をも打ち砕き一切をうちまかさせ、浄土へ生まれさせると誓われている。
かかる「自力作善」の善人さえも、弥陀は誘引したもうから、「善人 なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言われているのである。
「悪をするほど助かる」「悪は往生の正因」など、聖人の教えからは出ようがなかろう。
善人であれ悪人であれ、要するに「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる」他力の信心一つが強調されるのだ。
中略
総てみな「信心一つで救われる」他力の信心のことにほかならない。
すでに『歎異抄』一章には、「弥陀の救いには、善人も悪人も差別はない」と説き、「ただ信心を要とすと知るべし」と明言されている。
これによっても、善人悪人、一応、分けてはあるが、弥陀の救いの焦点は、他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。
『歎異抄』では、特に指摘し喚起しておかなければならない要点だろう。
マタイ福音書の、「このようにして先の者が後になり、後の者が先になるであろう」にも通じるところがあるのかな、という気分です。
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