先月、全てが生まれる場所そのものを体験している中で、唯一その体験を、誤魔化すことなくありのまま話す事ができたイギリス人のI氏と話している時、
私はその時の私の感覚を何とか言葉にしようとして、
「 I am, , , that.」
と言ってしまって思わず2人で笑った。
あまりに有名で使い古された句。
でも、この状態の事だったのか、と。
聖書の I am that I am. のフレーズの方が世間では有名だと思いますが、
ヨギにとっては、I am that. の方に馴染みがあります。
まぁ、本質的な意味は同じ事で、I am that (I am). なのですが。
I am that は有名なサンスクリット語のマントラ、 So hum (ソーハン)の英語訳の事です。
そして、I am that と言えば、ニサルガダッタ・マハラジの名著「 I am that 」。
調べてみたら日本語訳が在るじゃないですか!!
翻訳者様、ありがとうございます!!
という事で、図書館で借りてきました。
(地元の図書館、なかなか素晴らしい蔵書です。)
非二元論の体現者
非二元論を、論理的思考で理解したいと願う探求者たちに、懇切丁寧に言葉で答えたニサルガダッタ・マハラジ。
そんなニサルガダッタ・マハラジと探求者のQ&A集として有名な「I am that : Talks With Sri Nisargadatta Maharaj」の日本語版「アイ・アム・ザット 私は在る」より、
最近私へ向けられた質問に対するヒントにもなるであろう部分を引用します。
>質問者
もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに自己は存在できるのでしょうか?
>マハラジ
できる。
自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。
それは存在ー意識ー至福(サット・チット・アーナンダ)だ。
存在の意識は至福なのだ。
>質問者
それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうではありません。
私はどのようにして同じ体験に行き着く事ができるでしょうか?
何の修練に従い、どのような訓練をすれば良いでしょうか?
>マハラジ
あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺るぎなく見守る事だ。
また、あなたの身体とマインドに影響を受ける事なく、完全に距離を置き、あたかも死んでいるかのように生きるがいい。
つまり、あなたは身体にもマインドにも既得権を持っていないという意味だ。
>質問者
それは危険です!
>マハラジ
私はあなたに自殺しろと言っているのではない。
それに、あなたにはできない。あなたが殺せるのは身体だけだ。
精神的過程を止める事はできないし、あなたがあなただと考えている個人に終止符を打つこともできないのだ。
ただ、影響を受けずにいなさい。
この全く超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心で在る事は、存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なのだ。
身体とマインドに起こる事は、あなたの力では変えられないかもしれない。
しかし、あなたはいつでもあなたが身体とマインドだと想像する事をやめられるのだ。
何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あなた自身ではないのだと思い出しなさい。
誠実さが存在を明かすのだ。
想像し、決意した事が現実となる。ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。
あなたがどのようにして不変である本来の自己を身体とマインドから切り離したのか、話してみなさい。
>質問者
私は医者です。私は多くを学び、訓練方法としての厳しい制御と、定期的な断食を自らに貸してきました。私は菜食主義者です。
>マハラジ
しかし、ハートの奥底で、本当にあなたが欲しているものは何だろうか?
>質問者
私は実在を見出したいのです。
>マハラジ
実在の為に、どれほどの代償を支払う用意があるのかね?
いくらでもかまわないかね?
>質問者
理論的には、いかなる代償も支払う用意があります。
実際の人生では、何度も何度も私と実在の間を拒むような行動をさせられてきました。
欲望が私を夢中にさせるのです。
>マハラジ
あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たす事ができなくなるほど増大させ、拡大させなさい。
欲望が間違いなのではない。
だがその狭さ、小ささが間違いだ。
欲望とは献身だ。
ぜひとも真実に、かぎりなきものに、生命の永遠のハートに献身しなさい。
欲望を会いに変容させなさい。
あなたが求めているのは幸福である事だけだ。
あなたの全ての欲望はそれが何であれ、あなたの幸福への熱望の表現なのだ。
基本的に、あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。
>質問者
そうすべきではないと、私は知っています。
>マハラジ
何だって!
誰がそうすべきではないとあなたに言ったのかね?
幸せになることの何が悪いのか?
>質問者
自己は去らねばなりません。
>マハラジ
しかし、自己はそこに在る。
あなたの欲望はそこに在る。
あなたの幸福への熱望はそこに在る。
なぜか?
なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。
あなた自身を愛しなさい。賢明に。
あなたを苦しめる事になるような、愚かな仕方であなた自身を愛してはならない。
あなた自身を賢明に愛しなさい。
耽溺も禁欲も、ともにあなたを幸せにするという同じ目的を持っている。
耽溺は愚かな方法であり、禁欲は賢い方法だ。
>質問者
禁欲とは何でしょうか?
>マハラジ
ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが禁欲だ。
不必要な事を避けることが禁欲だ。
快楽や苦痛を期待しない事が禁欲だ。
常にものごとを制御する事が禁欲だ。
欲望自体は何も悪いものではない。
それは生命そのもの、知識と体験の中に成長しようとする衝動なのだ。
間違いはあなたの選択に在る。食べ物、セックス、権力、名声といった些細な事があなたを幸せにすると想像するのは、自分自身を欺くことなのだ。
あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠に幸福にするのだ。
(引用終わり)
これらの概念を「素晴らしいと言われていた人(ニサルガダッタマハラジ)が言っていたから、取り入れようと思う」のであれば、この言葉はあなたには響かないでしょう。
誰が言ったのか、他の人達は何を言っているのかを一切考慮する事なく、
あなたがこれまで身につけてきた思考も情報も知識も概念も全てこの言葉と関わらせる事なく、
ただ純粋にマハラジの言葉を読んでみてください。
あなたがあなたを構成していると思っている全ての思考、記憶、感情、経験と概念を今に引き継ぐ事なく、ただ存在として耳を傾ければ、
あなたにもこの言葉の持つ真実が明らかに見えてきます。
この言葉を思考で受け取ることに価値はありません。
内なる目で読み、あなたの何とも関わらせないようにしてください。
マハラジのいう「あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たす事ができなくなるほど増大させ、拡大させなさい。」という事が、真我実現の鍵だと思います。
この本では欲望と訳されていますが、実在を見出したいという願望の事ですね。
真我の実現以外に、この願望を満たす事ができないという事を否応無く知れば、
その真我実現を妨げる全てのエゴ、自我による思い込みも幻想も概念も、全てがことごとく手放されるからです。
これが、マハラジのいう「代償」、ラマナ・マハリシのいう「明け渡し(サレンダー)」です。
いかなるエゴの願いも、個人的な欲望も、真なる願いを満たす事ができない。
命の喜びを感じる事ができない。
どれほど全てが上手くいき、エゴの願望が叶ってもなお、満たされる事がない。
真実と共に存在していない事が、耐え難いほどに苦しくて、
神を求めて真実を求めて泣き叫んできた。
ほとんどの人は私が求めているものの価値を理解せず、
「足るを知る」のが大切だよ、なんてエゴのしたり顔で諭されてきた。
その度に、何故この「心」を偽る事ができるのか、なぜ「真実」から目を背けていられるのか、と
激しい憤りを感じながら、それでも避けようのない「願望」に突き動かされて孤独な道を歩いていると、
ほとんどの人には真実を見ることはできないが、
君は必ずそれを見る事ができる
と、通りすがりに様々な「先を歩く探求者達」が導いてくれた。
→ 例えば、仏教聖地巡りのあとで比丘に言われた言葉とか。
今の私がかつての私に出会っても、同じ事を言うと思った。
真我のみを求める、内なる衝動があれば、
その声に耳を傾けていれば、
その声の為なら他の何物も差し出す事ができるというほどに、その欲望が大きいのであれば、
もう真我を実現するのは時間の問題なのだ。
真我の為に自我の全てを差し出すのは、時間の問題だ。
自我を全て差しだしてしまうほどに、その欲望が膨れ上がった時、
その人は必ず、真我を実現する。
Self-realisation する。
ここ↓でも書いたように、
真我の実現に必要なのは、ただ一つ。
真実を知りたいと願う、真我そのものの声
それだけなのです。
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