先日書いた、ニサルガダッタマハラジの 「アイアムザット 私は在る」から、もう少し引用します。
今、世界の各地で、同じように気付き、目覚めている友人達がいます。
ほんの数人なのだけれど、今この時にこうして繋がっていて、
まるで宇宙に仕組まれているかの様に
同じタイミングで同じ様に意識が変容していっている事がとても面白いです。
(実際、ユニバースが働いている)
そして、この視点から見るといかに世の中に「偽り」の悟りや真実然とした話が、
聖者然とした人達から語られているのかが良くわかる様になりました。
有名な「聖者」に分類されている人達。
彼らの教えは、一度も聴きたいと思った事がなかったり、耳に入っても私には何も響かなかった。
でも、それっぽい事を話しているし、私自身が彼らと同じくマインドである程度「想像してしまった」悟りや真実に対する概念があったので、以前はどこか、
彼らの事をあまり好ましく思えない自分に対しての後ろめたささえありました。
が、「あの」違和感は正しかったんだな、と。
インド政府公認とか
伝統ある団体に認められているとか
有名だとか有名な人の弟子だとか、信者(フォロワー)が多いとか、
そういう事を判断基準にしちゃダメ。(ニサルガダッタ・マハラジも、貧しい掃除夫でしたしね。)
きちんと、自分の心が、自分の奥の奥の「真実」が伝えてくれる響きを信頼する事。
世の中はあまりに不純な情報に溢れているなと改めてはっきりとわかると同時に、
私が知らなかっただけで、無名な、名も知られていない、覚者があちこちに存在している事もわかりました。
この一年程、ずっと感じていたのは、まさに、この↓文章の様な事です。
あなたがここへ来たことで、物事は起こり始めている。
それを起こるがまま起こらせるがいい。
最後には、ものごとがそれ自体でうまく治っていくだろう。
未来に向かってあなたが努力をすることはない。
未来はそれ自体であなたにやってくるだろう。
しばらくの間、あなたは意味も確信も失ったまま、今同様に眠り歩きを続けるだろう。
しかし、この時期は過ぎていく。そして、あなたは仕事が順調に進み、成果をあげるのを見ることだろう。心が虚ろで離れていくことは、誰でも、いつの時でもあるものだ。
それは最も望まれる瞬間なのだ。
なぜなら、それは魂が精神的な拠り所を捨て去り、遠くへと航海を始めたことを意味するからだ。
古かったものは終わりを告げ、新たなるものがまだ訪れていない時 ー これが無執着だ。
もしあなたが恐れるならば、この状態は悲痛なものとなるだろう。
しかし、本当に何も恐れることはないのだ。教えを思い出しなさい。
なんであれ、あなたが出会うものを越えて行きなさい、ということを。
全てがこの、非二元と言われる、宇宙の唯一の真実の場所から、
生まれては消えていく。
全てはそれ自ら起こっていく。
起こるべきタイミングに、起こるべき場所で。
あらゆる物事が、完璧な調和を保ちながら協働し関わり合っていく。
そして、今この一瞬にしか真実はなく、時間の連続性は存在しない。
<質問者>
どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?
<マハラジ>
もしあなたがそれから自由になりたいなら、「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれをみて完全に理解するまで、それが作用している時や、落ち着いている時を見守りなさい。
それがどのように始まり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかをみなさい。
結局、全てのヨーガはその源がなんであれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。
分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から阻害したからだ。
そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私はある」は偽りだからこそ、それは存続を願う。
実在は存続する必要がない ー それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。
それは形態とその根源の破壊に無関心なのだ。
「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが、ー全ては無駄に終わってしまう。
なぜなら、「私はある」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。
それは絶え間ない仕事なのだ。
そして唯一の確信的な解決法は「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。
存在は残る。
だが、自己存在ではない。
学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。
だが、自己が知られていない時、単なる知識が何になるというのか?
それは間違いなく誤用されてしまうだろう。
知る者を知らなければ平和はありえないのだ。
神の世界はマインドを超える
<マハラジ>
全ての精神的なものがそうであるように、いわゆる因果関係もそれ自体が相矛盾するのだ。
存在の中で、ある一定の原因を持っているものは何ひとつない。
宇宙全体が最も小さなものの存在の一因となる。
宇宙がそのようではない限り、何ひとつあるがままでは在りえない。
あらゆるものの土台と源が、起こる事すべての唯一の原因であるとき、因果関係を宇宙の法則とみなすのは不当だと言えよう。
宇宙の潜在的可能性は無限な為、その内容物によって限定される事はない。
しかもそれは基本的に、完全に自由な原理の表現または顕現なのだ。<質問者>
ええ、結局ひとつのものが、他のものにとって唯一の原因だとするのは、全く間違いだということがわかります。
しかし、実際の人生では、結果を見込んで行動を起こすのが私たちの常なのです。<マハラジ>
そうだ。無知の為に、そのような行動はいたるところで見られる。
全宇宙がそれを起こさない限り、何事も起こりはしないという事を人々が知るなら、彼らはよりわずかなエネルギーでより多くを達成するだろう。<質問者>
もし全てが原因全体の表現だとするなら、ひとつの達成に向けての目的ある行動などというものがありうるのでしょうか。<マハラジ>
達成しようとする衝動自体も全宇宙のひとつの現れなのだ。
それは潜在するエネルギーが、ある一定の地点で現れた事を意味するにすぎない。
時間という幻想が、あなたに因果関係について語らせるのだ。
過去と未来が共通のパターンの一部として、永遠の今において見られるとき、原因と結果という概念は効力を失い、創造的自由が現れる。
” ”内は、ニサルガダッタ・マハラジ アイアムザット私は在るより引用
この本に書かれている質問のほとんどが、
「マインドで納得できません!私がこれまで学んできた豊富な知識が実る様に教えてください!」
とでも言っているかのようで、
マハラジもそのマインドに根気強く付き合って説明してくれているのですが、
私には興味のない質問が多くてほとんど読めませんでした。笑
たまにパラパラとめくって面白そうな所だけ読んだ。
私には断然、ニームカロリババの本の方が合っているみたいです。
ニサルガダッタ・マハラジは、学者タイプや理論派、議論が好きな人たちに合いそう。
私も、9年前だったら貪るように読んでいたかもしれないな、と思いました。
あの頃は知識を吸収したくてしたくて仕方がなかったし、そういう時期だったのだと思う。
詰め込んだからこそ、知識に対する執着を手放せたという部分もあるし。
今の私は、「何も知らない。あんなに学んだ事も全然覚えていない」と思っているのだけど、
人と話していると良く、
「どうやってそれほどの知識を得てきたの?」
と聞かれるので、きっと、普段は覚えていないけれど必要な時には適切なタイミングで必要な事だけが都合よく思い出されるのでしょう、と思っています。
だから、全部忘れていても別に良い良い。
私じゃなくて、いのちを信頼し、私の知識なんかよりもずっと知恵のあるいのちが現れるがままにお任せしていきます。
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