魂の在り方と意識・感覚

弟子と弟子以外

初めて出会った聖者。
とても力強く、愛に溢れていました。

見ているだけでしゅわしゅわとカルマが解放されていくようで、
何も考えられないし考える必要もないように思えていました。


ただ、その後の疲労困憊ぶりが半端ないです。

幸いにして、3、4日おいてすぐに先生たちとサットサンガ(瞑想会)があったので、処理してもらえた感じ。


「グルパランパラの瞑想をしているから、受け取ることの出来る容量が大きくなってきているから
一度でたくさん祝福を受け取るんですよ。」

と説明されて、色んな事が納得。


自分のキャパができていないと、与えられてもほんの少ししか受け取れない。

だから、聖者に会うまでにどれだけ努力したかが大事。


インドに何回行ったとか、聖者に何回会ったかは大事じゃない、
たった一回会うまでの間に、どれだけ自分と向き合ってきたか。

みたいな事を言われた。

霊的成長の「段階が進む時」という話を先生たちがしていたのだけれど、
なぜか全然理解できなかった。


日本語はわかるはずなのに(笑)、
全く飲み込めなくて、変な感じだった。

そのうちわかる時がくるかな。

【探求者が熱心に努力し、師を受け入れるほどに熟した時、師は必ず現れる】
私たちにできることは、師を探す事じゃない。
師が現れた時に、受け入れる準備を整えておくことだ。


と、聖典に述べられている。


アンマは、一般人の私たちにはとても優しく、一切の制限も設けない。
(通常聖者に会うのに、女性だと生理中は会えないし、ベジタリアンじゃないと会えない場合もあるらしい。
インドでは、生理中は女性はお寺にも入れない事もある。あと、女性はシャワー(沐浴)後じゃないと、聖なるものに触れてはいけないと言われたり。)

生理が終わってて良かったー!と参加したのだけど、全く注意書きがなかったから、ビックリした。

弟子へ向ける厳しさと、一般の私たちへの寛容さと。

同時に見ていると、その奥にある彼女の深い愛が見えてきた気がした。


私たちへは、神の子である私たちがぐれてしまわないように(笑)、
全てを受け止め見守ってくれるお母さんであり、
お弟子さんたちには、厳しく力強く導く・・・ドゥルガー女神のよう。。。

(アンマはカーリー女神の化身と言われているようです。
カーリー女神=ドゥルガー女神の別の姿)


やっぱり、弟子へ向けているアンマの深い思いは、違う。

アンマを慕い、支え続けているお弟子さんたちを見ながら、師への敬愛に心をうたれ、
その思いに応えて自分のところまで引き上げていこうとする師の思いにまた感慨深くなった。


一日中、雑念だらけな瞑想会でした。
疲れが溜まっているのと、カルマが勢いよく噴き出しているのとで、
「雑念だらけだね〜(笑)」
って言われたw


そんなの初めて言われたけど、ええ、確かに今日は変。
これが雑念なのか、うん、納得、って感じ。

落ち着いて「見ている」時と、
思考に振り回されて、「掴まっている」時の違いが実感としてハッキリとわかった。

弟子になるなら、守らなければいけない事、やらなくてはいけない事がたくさんある。
でもね、そうじゃない人は守れなくてもいいんだよ。


それでも、「縁」が出来たら、いつか神と向き合う時が来る。
来生、来来生かもしれないけれど、確かに霊性の道と縁が出来て・・・もうそれだけでも充分価値があることなんだよ。

と、言われた。


「見守る」母の愛って途方もないんだね。
そんな悠久の時間を踏まえて見守ることが出来るから、優しくなれるのかな?

私は、そんな風に見守られるのは悲しいと思うタイプなので、

さぁ、とっとっと先へ進みなさい!!

と急かされながら、はい、次!はい、次!って課題を与えられる毎日の中にも、
神の愛と祝福を感じています。

吹き荒れる嵐の中を突き抜けなければいけなかろうが、
それでも私は、「それが何か」を知りたいと思うから。

知りたいと渇望する心がここにある自分が嬉しい。


そして同時に、自分自身へも他者に対しても、悠久の時間を踏まえて見守るマザーディバイン、
母なる愛も少しずつ身につけていきたいと思う。