2013年8月の事です。
シルディサイババの本を読みながら家に帰って、ほっと一息つこうと壁に瞑想の姿勢で持たれかけた途端、
呼吸がとても深くへと意識を誘導していき、
そのまま夢なのか、起きているのかわからない状態が続いていきました。
ババのエネルギーに満たされながら眠っていると(?)、
気付いたら私はこの場所でババの足をマッサージしていました。
そのことに気づくや否や、好奇心が湧いてきます。
聖者の体には、カルマや感情の詰まりが本当にないんだろうか?
聖者の解放された肉体を、細胞の隙間までくまなく観察してみよう!
(私は、色々な情報を、人の肉体を通して読み取ってしまいます。
体の中に、記憶や感情が詰まっています。)
聖者の体を知るチャンス!!
とばかりに、ババの足を観察しながらマッサージを続けていると、
いつの間にか、ババの脛(すね)に、化膿してぐちゅぐちゅな深い深い傷が開いています。
痛いな〜
と思いながら、傷を避けてマッサージしながら、
ふくらはぎの側から足を揉んで、傷によって周囲の筋肉が収縮してしまわないように、とアプローチしていました。
そして、ふくらはぎの側からの感触で傷を観察していました。
するとババに、手を掴まれ、
「なぜここ(傷)をマッサージしない。
なぜ避ける。
しっかりと目を開いて、コレを見なさい。
手を入れて、これが何かを知りなさい。
しっかりとマッサージしなさい。」
と言われて、
「痛いよー。」
って言って涙を流しながら、
「ババ、嫌だよー。やりたくないよー。痛いよー。」
ってボロボロ泣きながら、私はひたすら傷ついたババの足を、傷に手を突っ込みながらマッサージし続けました。
泣き疲れて、いつ終わっていたのかわからないけれど、
だいぶ経ってから、ふと気づき、
疲れた〜と思って横になりました。
聖者の御足は、智慧の象徴です。
インドでは、足に挨拶します。
憧れ続けたババの御足。
触りたいと求め続けたその御足。
それに触れることができた幸福感と充実感にも満たされながらも、
「えーーーん。拷問ーーーー(T_T)」
ババの足にある傷なのに、私が手を突っ込んでも、ババは痛そうにしていない。
私は、痛くていたくて、もう手を抜きたいよーって泣いているのに、
ババの無言の「続けなさい」という命令。
その後も思い出しては嗚咽するほど泣いて、
泣いて、
泣きに泣いた。
けれど、それはいつも喜びの涙だった。
喜びが内側から溢れていき、
痛みが
膿が、押し出されて行く。
噴出。
あの頃は、とにかくババや神の光のエネルギーが私の中央に強く入り込んできて、
私を満たしているのをずっと感じていたのだけれど、
体や、まだついていけないエネルギーが叫び声をあげていて、
とにかく、「存在」しているだけでキツかった。
低い振動数から、高い振動数まで、色々な振動数が同時に身体に散らばっていて、
なんで、こんな物質の振動数に縛られていなきゃいけないのか、どうやって今まで肉体を動かしていたのか、
疑問が生じるほどだった。
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