2012年7月のことです。
仏陀からの灌頂を体験した。
その体験から抜け出てきて、ぼうっとしている時に、
最初に部屋に入ってきたのは、
2年ぶりに一時帰国していた、海外に住む従姉だった。
(ヨガのレッスン前で、借りていた和室で瞑想をしていた)
1、2時間前に連絡が来て、ちょうど近くで用事が終わるから、レッスンに行くよ、という話になったのだ。
2年ぶりに会って開口一番、私は、
「今、仏陀に会った・・・」
と言った。
そこで何を体験したのか、
おそらく言葉では全く説明できていなかっただろうけれど、
従姉は受け止め、喜んでくれた。
仏陀との葛藤を、それまでもよく聞いてくれていた従姉が、
あのタイミングで会いに来てくれた事自体、全ては祝福された計画だったのだろうと思う。
従姉に一通り泣きつかなければ、
とても、その後レッスンなんて出来なかったと思う。
ボーッとして、言葉も直ぐには出てこなかっただろう。
その後の1ヶ月は、とにかく意識の世界にいた。
誰とも不要な会話をせず、ネットからも離れ、とにかく早く自分の部屋へ戻って、瞑想したかった。
意識が、「空」を掴めなくなる(波動が低くなって認識できなくなる)ということがないように。
その時の体験を、書こうとしたけれど、書くべきではないと思った。
なぜならば、多くの【幻想に逃げ込みたい病】の人たちは、
人の体験談を通して、【体験を作り上げる】からだ。
仏陀の灌頂という体験を、いつか作り出して、
「私も体験しました!」
と言われたところで、それが本当の灌頂であることは少ないだろうと思う。
とにかく、いまはまだ言うべきではない。
これを読むであろう誰かの準備が出来ていない為に、
灌頂や悟りや神秘体験の情報を書けば、
その人は返って、Mukthiから遠ざかってしまうから。
意識が違い過ぎれば、一緒にいることはできない。
この数週間、ずっと浮かんでくるキーワード。
幻想に逃げ込むことを求める魂ではなく、
気付く事の出来る魂が、
本当の意味で私を必要としている。
「悟りたい」「私ってスピリチュアルな素質を持った人間なんです」って言っていても、思っていても、
申し訳ないけれど、ステージが全然違うと感じることは、今までに何度もあった。
多くの人が、2合目にいて、
3合目に4合目にいる人の言葉を聞いて目指すだろう。
そして、せいぜい目指す目標は5合目だろうか。
私は、自らも10合目を目指しながら、
同じ10合目を目指せる人を相手にする。
たとえその人がまだ、2合目にいても、
見つけ出す事はあるだろう。
あなたは、10合目を目指しなさいと、言うだろう。
私がそうやって見つけてもらえてきたみたいに。
でも、基本的には、4合目を越えてさらに上を目指す人にしか聞こえない。
6、7合目を通り抜けようとしている人ほど、
「私」の声を必要としているから、
私は、その人たちを相手にしなさい、
と言われているような気がします。
そして、その為に取り組むべき内なる課題は、まだまだあるのだな〜と感じています。
カルマって途方もない量なのね。
そして、「私ってスピリチュアルなんです」という自覚は・・・、
往々にして、私には「もののけ」の感覚がします。
近づいてはいけないと感じる神社のような・・・。
低い波動を好む人は、低い波動のまやかしに魅入られ、そしてそれを神と崇める。
パワースポットと呼ばれる場所の本当のパワーを、ありのままに感じられる人はどのくらいいるんだろう。
低級霊のささやきに魅入られ恍惚状態になって、「清らかでスッキリする」と発言する人たちは、
自分がその波動から抜け出さない限りは、自分の場が汚れているなんて気がつかないんだろうなぁ、と、そんな事を最近は考えています。
土地のエネルギーも日々影響していくので、
これからは、毎日をできるだけ近所(エネルギーのいい土地)で過ごせるようにしよう、と考えています(^^)
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