魂の在り方と意識・感覚

シュリ・オーロビンド・アシュラムへ行く

この記事の続きです。↓

とてもとても深いところから、助けを求めて叫んでいた。

「私は何をしていけばいい?教えてください!」と。


魂の目的だと感じていた物事が「違っていた」とか「もっと取り組みたい事に出会ってしまった」とかだったら、
いくらでも受け入れられると思った。

そうではなくて、
そういう「現象として現れている」事ではなくて、
私の「感性」、スピリチュアルな能力、真実の声を聞く、この「センス」そのものが

崩れていく事が怖かった。


夢を失うのが怖い、

という以上に、

理想を夢見てワクワクしていた、その自分自身が
そもそも存在していなかった・・・?

今まで
何を感じて
何を見て
何を思って生きてきた???

誰が??

何もかもがわからなくなりそうだった。



だから、自己という感覚の根本が壊れたとしても、
やるべきことさえわかれば、そこへ進めると思った。
そうじゃなきゃ、消えてしまいそうだった。
死んでしまいそうだった。


ルームメイトは言った。
「今、君のエゴが死んでいってるんだね。」と。

そんな風に理解がある人と一緒にいられたのは、きっとユニバースの計らいですね。

アシュラムの覚者も、瞑想の先生も、スワミジも同じ事を言っていたなと思い出す。
「今、君のエゴが死んでいくんだ。それを感じながら委ねなさい」と。



それでも、私はエゴをどうやったらうまく死なせられるのかなんてもちろんわからないし、
とにかく、必死で、
オーロビンド・アシュラムへいき、
シュリ・オーロビンドが眠る墓の前に座り瞑想をした。


私の行く道を示してください。
私は、人のため、地球のため、森羅万象の為に働きたい。
どうやったらこの願いを叶える事ができるのか、私にわかるようにしてください。


いつも以上に瞑想が深まっていった。
体の力が抜け、体を保とうとしなくても、
内から流れてくるエネルギーそれ自体が、私の体を非常に安定した状態へ導いていた。

背筋がどんどんと伸びていき、
体の様々な点が微調整されながら、「安定」へと整っていく。

私が行うのではない、呼吸自らが作り出すリズムが、意識をさらに中心へと誘っていく。

その時、その呼吸、エネルギーと共に私という存在全体へ広がっていったのは、
次のメッセージを含む感覚だった。


自分自身を愛しなさい。
自分自身の喜びの為に生きなさい。

あなた(私)を犠牲にする必要はない。

まず、あなたの幸せを一番に掴みなさい。
それが、あなたにできる森羅万象への最高のギフトです。


気づくと、ボタボタと大きな塊が溢れ落ち、服が濡れていた。
我にかえってもなお、しばらくの間涙が流れ続け、呼吸は深いままだった。

目を開けてからもしばらくは、ゆったりとそこに留まった。

ふと、年配のマダムがこちらを見ている事に気づく。
目が合うと、かすかに微笑んで、まるで「良かったね」と見守っていてくれていたかのようだった。

インドのこういう所が好きだ。
こんな風に涙を流すことすら、「当たり前の反応」として護られている空間がある事が。
好奇の目に晒される事なく、ただここにいる人たちは皆、「自分と神」に意識を向けていて、
他人に何が起きていようと気にしていないこの空間が、心地いい。
(とはいえ年々、こういう神聖な空間が減ってきているので尚更ありがたい)

頭にかけていたショールで涙を拭う。
そのマダムと同じくらいの年齢の、グルガオンの家の下の階に住んでいたマダムにもらったショール。
たまにご飯をご馳走になったり、電気代を払ってもらっていたり(←ちゃんとお金を持っていったけど突き返された 笑)、
ご夫婦にはお世話になった。
困った事があると、(オーナーが何もしてくれないので)ご夫婦がメイドさんやドライバーさんを貸してくれて何度も助けてくれた。

オーロビルに行くと言ったら、彼らも長年シュリ・オーロビンドを信仰しているとの事。
オーロビンド・アシュラムへも何度も来ているけれど、
今ご主人が腰を痛めてしまったから、もう行けないだろう、と言っていた。

ご夫婦の事を思い出しながら、

そうだ、何かオーロビンド・アシュラムでのプラサードをご夫婦に持って帰ろうと思っていたんだった。
何にしようかな。

そう思い至って、ようやく普通の状態に戻る事ができた。


戻ると、どこか悔しいというか、苦しい感覚があり、思わず体に力が入ってしまう。

ルームメイトと、ポンディチェリーの町を散策しながらも、
意識のどこかにずっと、苦虫を噛みしめるような気持ちがあった。


何で。
人のために生きたい。
地球の為に生きたい。
森羅万象の為に生きたい。
神(真実)の為に生きたいと、こんなにも望んできたのに。


なんで。


なんで。




何が私の喜び?

私を犠牲に・・・、私は自分を犠牲にしてた??

してたよね。ずっと苦しかったよね。
それでも、自分に課せられた使命を全うする事が、私の喜びだと信じてきたよね。

でも、苦しいから、普通になりたいとも思ってきた。
なぜ、神が私に声をかけるのか、
なぜ、私に「君は真実を掴める」という人たちに次々と出会ってきたのか、
それを重荷に感じながら、私自身がそれを望んできた。

それは祝福と喜びに溢れていたけれど、


実際、今、私は苦しい。


私は、
ずっと、間違った道を歩いていたんだろうか?

そんな事すべて投げ出して、
ただただ、自分が楽しいと思える事を優先すればいいのかな。



ーーーーーー

当時の私は、私という存在、人生を、全否定されたような気持ちでいた。

この「みさ」としての人生だけじゃなく、
過去の幾生もの、すべてを否定された感覚だった。


古くは、仏陀(シッダールタ)と同じ時代に生き、
シッダールタだけが真実を知り、
強烈にそのシッダールタが知った「真実」というものに惹かれてしまった時から、

何度も何度も生まれ変わり、

今世の前は、ずっとヒマラヤの寺院の中で一生を神(仏)に捧げ、
世界と全人類の為に修行を続け祈り続けた。

オーロビンド・アシュラムで感じたものは、
私の、長い長い魂の旅路のすべてを、否定するようなメッセージだったのだ。


「みさ」だけの話であれば、大してショックは受けなかっただろうと思う。
「そりゃ、私の幸せがあってこそ、人を幸せにできるに決まってるじゃん!」って笑い飛ばしそう。笑

でも、瞑想中に感じたものは、

言葉にすると薄っぺらくなってしまうけれど、

「みさ」に対してではなく、
この「魂」に対して響いたものだった。

この「魂」が何千年と信じてきた、根本的な在り方を揺るがすようなものだったから、

頭をハンマーで殴られたような感じがしていた。

<あとがき>楽しさ全開の中にあった戸惑い

ここまで、当時感じていた、意識の変化に対する恐れ、不安、戸惑いなどにフォーカスして
思い出しながら書いてきたけれど、
1年前の事を改めて思い出してみると、

「確かに年末にリシケシにいるときは、気が滅入っていたけれど、
 年が明けてオーロビルに来てからはむしろめっちゃ楽しかったよね?あれ??」

と思って、当時の日記やSNSを振り返ってみた。


確かに、今日の記事に書いたような感覚、
自分の中心、土台が崩れていくような感覚はあったけれど、

一方で、毎日素敵な人たちに出会っていて、
人の意識、霊性、環境の事、政治・経済のこと、
私が一番語り合いたいトピックを、
自然と深く語り合うことのできる人達と、感動しながら過ごしていたのも事実。

みんなでご飯作って、語って、笑って、
別れや旅立ちに泣いて、

楽しい日々を過ごしていました。


多次元の全く異なる意識が同時並行で進んでいるというか。
どちらも純粋な、偽りのない感覚だという事も付け加えておきます。




続きます。

私の送別会という名目でベジタリアン寿司を作らされている図(笑)