魂の在り方と意識・感覚

変容のトンネルを抜けた・・・

OM Sai Ram

一年以上続いた変容のトンネルを抜けた

2019年末から続いていた大きな変容のタイムトンネルを通り抜けた感覚がしています。

(あれ?もしかして・・・木星山羊座期と時期がリンクしているかも・・・。)

感覚が変わりすぎて書けない事もあったりして・・・。

今日は、とりとめもなく雑談します。(いつもか。)

サイババ3週間プログラムは・・・

10月に言ってた、シルディ・サイババからの瞑想プログラムはどうなったのか?

すっかり忘れていた。
あれ?私、どうなったんだっけ?
と思って過去記事を見ると、3週間プログラムは一応終わったようです。

そうそう、思い出した。
最初の3週間は、結構まっすぐサイババと、そして自分自身と向き合うのがキツくて、
一応瞑想をして自分とつながって、サイババのサポートや助言も聞きつつも・・・、

すごく前向きに取り組んでいるというよりは、
どこか気持ちに「逃げ」があったんだよね。

精神的な部分よりも、身体がすごく楽になったんだった。

で、まだまだ深い変容が必要だなって感じたのと、
サイババから、次は56日間続けるようにっていう指示があったんでした。


そういえば、11月頃は瞑想中にサイババとつながってアドバイスを貰っていたなぁ。



いつからだろう。

あまり、特定の、個別の存在を意識しなくなったんだよね。


私、サイババが大好きなんです。

ババ、らぶ。


同じようにババらぶな人たちには伝わるけれど、そうじゃない人に言ったら変人扱いされるレベルで、
「ラブ」なんです。

それはサイババだけじゃなくて、
グルと呼ばれるマスター達みんなに対してそうで、
別に個々人に対して好きという気持ちがあるわけではなくて、

サイババや他のグル達が達しているその「意識状態」に対する憧れなんだよね。
だから、サイババだろうと、ブッダだろうと、ラーマクリシュナだろうと、ニーム・カロリ・ババだろうと、あまりその名前や、その方個人の生前の個性派関係なく、「好き」なんです。

まぁ、そんな中でもブッダとサイババは特に縁が濃いようで、
私はブッダはもっと近しい存在として慕っているけれど、サイババは憧れなんです。

憧れであり、厳しい師であり、優しいおじいちゃんであり(!)、
何度家出しても迎えに来てくれるだけでなく、
温かいシチューも用意していてくれるけれど、
ご飯の前に宿題ねって、どっさり置いてある宿題の横で微笑んでいるような・・・

私にとってサイババはそんな存在です。(どんなやねん)

(仏陀は幼なじみ)



もちろん瞑想自体はもう癖のようなものなので毎日最低でも1回はやっているんだけど、
上の記事を書いた後、毎日毎日サイババを思って瞑想したかというと、そうではないんだよね。


だんだん、サイババのような特定の個性を思い浮かべる事のない領域へ意識が入っていく事が増えたので、
意識が導かれるままに、「サイババ」という対象を感じようとする執着を手放していきました。

別に、その領域へ入る事が初めてだった訳でもないし、
今までもずっと何かサイババのような対象を意識して瞑想していた訳ではないです。

たまたま、あの時期、サイババからオファーがあったから、サイババを思って瞑想をしていただけなので、
勝手に意識が、「個」を識別できない深さへと入っていくのであれば、
あえて意識を表層へ戻してサイババを思う必要もない、と、当たり前のように感じていたから、
自らの意識が誘われていくままに、
漂うままに瞑想を続けていただけです。

だから、サイババを意識しながらの瞑想は、
気づいたらいつの間にか無くなっていました。

とはいえ、部屋にはサイババのお顔が飾られているので、瞑想する前にそのお顔は目に入っているのだけど、
瞑想に入ってしまえばその「個」は特にはありませんでした。

もちろんたまに意識することや感じることはあったし、
サイババからのメッセージと取れる事もありましたが、

サイババだけでなく、ニームカロリババだったり、仏陀だったりもしたので、まぁ特筆するほどでもないかな。


それよりも、そう言ったマスターたちの存在もどんどんなくなっていき、

今は「真我」しかないことの方が面白いかな。


会話する対象がなくなった。

ただ、自分が「在る」だけ。


そのスペースにいて、
そのスペースから全てのエネルギーや、欲求や、思いつきなんかが生まれてくる、そういう場所に、
ただ自分がいる。

場所にいるっていうより、そのスペース自体が、私という存在なんだよね。



6、7年前、毎日のように泣いていた。

ババ、ババ、私に神を見せて。
神と一つになりたい。
この見えないヴェールを取り除いてよ。
私もそっち側に行きたい。

マー、マー!!
マーの中に溶け込みたい。
私に姿を見せて!!

って。
神と一つでない事が耐えきれない程辛くて、
求めて求めて、キチガイなくらいに求めて泣いていた。

今この瞬間、神と一つでない、という事が受け入れ難かった。


私はまだ20代だった。
50代、60代で神と一つになった人、悟った人が
「若い」「凄い」と偉業を讃えられている事にも耐えられなかった。

「あなたはまだ若いんだから」と言われるたびに、
人生経験を積んで、年を取れば、あなたは必ず悟れると言われても、

「なぜ、今、じゃないんだ!!」と、納得できず

神に向かってひたすら泣き叫んでいた。


インドでも、日本でも、出会う人たちに言われてきた。

「君は必ず真実をつかむ事ができる」と。

でも、それが「いつか」である事が、受け入れられなかった。




傲慢だと言われようと、
「いつかじゃなくて、今、真実を悟って存在する事ができるハズ」と信じていたんだと思う。

それは、伝統の系譜や、個別の神と一体化したマスターを通さなくても、
私自らが、今この瞬間、神と一つで「いられる」事を、求めていた。

伝統的行法の系譜を離れ、
人間としての師がいない心細さを感じながらも、
心の内にいるグルを信じて、
求めて求めて探求を続ける中で、

たまに意識が深くへと変容していき

「すでにそうで在ること」に気づくたびに、

恐れ多くておののいた。


他の誰にもできていない事が、
こんなロクでもない存在の私にできるものか??


瞑想に入ると、
ワークをして深く自分の中心にかえっていくと、
ババやブッダと繋がるのではない、ババやブッダが「そうであったのと同じ状態でいる自分に気づく」のだ。

そんな瞬間をこの6年、何度も体験しては、怖くなって逃げ出した。
修行を忘れ、何度もエネルギーを封印してみた。

でもそんな期間は長くは続かず、
再び瞑想をはじめては、模索し、迷いながら、

「在る地点」に到達してしまい、

また驚いて逃げ出した。





そんな事を思い出していた。


「この場所」で、ただそうで在る事が、恐ろしかったのだ。


今となっては、何がそれほど怖かったのかがわからない。

おそらく、かつては、そうで「在る」事が特別だと思っていたのだろう。
まだエゴの視点で見ていたからだ。

本当の意味でただ「在る」と、
そんな特別感も何もなかった。

他の誰もがそうであり、この世界の全てがすでにそうで「在る」のだ。

神の一部で在るわけじゃなく、
神そのものなのだ。全てが。



私だけができて、他人にできない訳ではない。


全ての人に内なる神が在ると言いながら、
そう思えていなかったのだ。



そして、6、7年前に、神を知りたくて知りたくて喉から手が出るほど求めた、その渇望こそ、
その熱烈な欲求こそ、私の神性だった
のだ。

この「存在」から生まれる純粋なるエネルギー

Aspiration

求めている時、その渇望こそが、神そのものであり、私は既に神とある意味一つだったのだ。

悟っていなかったことはこれまでに一瞬もなく、
神と離れていたことは一瞬もなく、
目覚めが存在しなかったことはなかった。






そんな事を、思っています。