魂の在り方と意識・感覚

癒しビジネスが大嫌い

癒しのマーケット

私ね、人生の真っ暗闇にいる時、大好な勉強をしていたのに理学療法科を中退する事になり、
もう医療職にもなれず、かと言って鬱で過食症で過眠で引きこもりで、
かつ不整脈のせいで眠っている時ですら普通の人が軽く体操をしているような心臓の状態で、
起きて家の中を歩くだけで、普通の人がマラソンするくらいに心臓があぶってしまっていた、(←担当医の表現)
そんな時期でさえ、

同じようにうつや摂食障害・病気や障害で悩んでいる人たちと、
支え励まし希望を見せ合うことはしても
決して傷の舐め合いはしな

と決めていました。

誤解しないでいただきたいのは、私は、
お互いを認め合い、「今は休んでいいよ」「ゆっくりしようよ」「急ぐ事ないよ」って、自分にも相手にも寛ぐ心のスペースを与える事と、
傷を舐め合い、ぬるま湯に相手を留めようとすることは根本的に違う、
と思っていて

私がしないと決めているのはあくまで、「傷の舐め合い」です。

それは一般的にはただただ愚痴ばかりを言い合って、いつも誰かや何かのせいにして
自分は決して変わろうとしない人たちと表現できるかもしれません。

私は傷の舐め合いではなく、
疲れている時や、大変な目や、傷ついている時に、
「ゆっくり休もう。しっかり休んで。いつかは必ずまた歩き出せる時が来るからね」
「焦らなくていいよ。」
と言い続けてくれたたくさんの人の支えのお陰で生き続けることができていると思っています。

どん底を脱してからでも、いつも密かに心に留めています。
それほど深い悩みがない人たちでも、いわゆる人生に失敗した訳ではないけれど悩んでいる人たちでも、状況や環境がどれほど異なろうと関係ありません。

自分をぬるま湯という、ある種、アリ地獄の様な所に引きづり込むような「魅惑的な言葉」を発する人からは全力で距離を置いてきました。

立ち直っていく過程で関わってきたスピリチュアル業界も、ヨガ業界も、どちらも本質からは遠くかけ離れていて、私には、「癒し」というキーワードに惹かれ傷を共有する事で繋がっている底なし沼のようにしか見えなかった。

傷が何度も何度もぶり返すように、決して根本的には解決させない。
甘い言葉で誘惑し、ぬるま湯に誘い込み、そこから抜け出せないようにするいくつもの手。

これこそが「地獄絵図」なのでは?
と思った。

昔読んだ、梨木香歩さんの裏庭 という本に、不思議な世界にある「癒し市場」の描写が出てくる。
その癒し市場の気持ち悪さ感じながら主人公達はこう言う。

「自分の傷と正面から向き合うよりは、似たような他人の傷を品評する方が遥かに楽だもんな」

「皆が傷をさらしているので、攻撃欲も萎えた代わりに、目に見えぬまやかしの癒しの菌の根がはびこって、がんじがらめになってしもうた。腐りかけた傷がその菌の温床となって、次から次へと人を呼び、その傷をあらわにしていく。あらわになった傷は、その人間の関心を独り占めする。傷が、その人間を支配してしまうのだ。本当に癒そうと思うなら、決して傷に自分自身を支配させてはならぬ」

「わしは、両の手を落としたが」「それでも構わんと思ったぞ、さっき」


「癒しという言葉は、傷を持つ人間には麻薬のようなものだ。
 刺激も適度なら快に感じるのだ。そしてその周辺から抜け出せなくなる。癒しということにかかわってしか生きていけなくなる。」

梨木香歩「裏庭」

もう読んだのは10年以上前なのであまり覚えていないけれど、HSPやエンパスがこの現実世界で感じている事が的確に表現されていて、不思議な世界でそれを象徴的に見て理解していくことができる作品だと思った事は覚えている。
本棚に残っていたので、今一度読んでみようと思う。

この「裏庭」で、癒しの市場にいる人たちは、様々な癒しの方法を「勉強」しながら、
自分の傷と正面からは決して向き合わず、似たような傷を持っている他人を見つけては表面的に手を差し伸べる。
隠された(表面的には癒された)傷は、見えないところで腐り、その膿は広がり、別のところから新たな傷が噴出する。

自分とも、そして、他人とも正面から向き合えない。
向き合おうとする者、向き合う強さのある者達を遠ざけ、同じような傷を持った者達だけで永遠に抜け出せないループの中に留まり続ける。

学び方

裏庭を読んだ時、私がどん底を通りながらそこに留まる事なく抜け出してこれた理由がよくわかった。

どん底というのは、社会的な立場とや、状況の事じゃない。
心の問題。

社会的に、一般的に、普通に問題なく過ごせている人達の中に、この暗くジメッとした菌ははびこっている。
ヨガや、ヒーリングの世界で、嫌というほど見てきた。

日本だけじゃない。
どんな国の人達も。

世の中のほとんどが、自分自身と向き合うことすらできないまま生きてるのだと思う。


だからこそ、「自分と正面から向き合う」
ただそれだけのことができるだけで、開かれていく扉があるよ。

ただそれだけの事で、少数派になれる。
すると、その心構えができている人にしか見えない物が見えるようになるし、
その心構えができている人にしか教えられないことが教えてもらえるようになる。



いろんな「ヨガインストラクター」達から、
どこでどうやってヨガを学んできたのか?と聞かれる事が多々ある。

あまりにも世の中の一般的な世界と違うので。

まずは、外に知識を求める事をやめ、自分と向き合う事だ。

師は、必ず現れる。

グル(マスター)は、弟子の準備ができた時に現れる。

どうやってヨガを学んできたのか?

いつも、自分自身を、その教えを受け取るにふさわしいレベルに自分自身で引き上げてきた。
もちろん、師と呼べる人達の支えと導きがあったからこそ、でもある。

でも、師がそこにいても、教えがそこにあっても、
それらから学べるかどうか、それらを自身の糧にできるかどうかは、自分次第です。