魂の在り方と意識・感覚

それでも人生にイエスと言う V.E.フランクル

メルカリで売れたので、10数年ぶり?に本を開いたら、今後も振り返りたくなりそうな言葉が並んでいたので、自分用に読書メモを残しておこうと思います。


・・・と言って、書き残したのが数ヶ月前です。
公開まで時間がかかってしまった。笑
日本を離れた後に自分で読み返せるように好きな言葉や心に留めておきたい物を残したいと思って、
読んだ本の中から片っ端からメモって保存しています。
昔はノートに書いていたけれど、そのノートも日本に置いていくので・・・。

私という本質

夜と霧」で有名なヴィクトール・E・フランクルは、ナチス強制収容所での体験と極限状態でみえた人間の精神状態について考察し、生きる意味、人間の尊厳を伝えてきた精神科医(だと私は認識している・・・)。

それでも人生にイエスと言う」と言うフレーズは、
ナチス強制収容所に入れられ、悲惨な環境下で、精神的・肉体的に暴力を振るわれ、肉体の自由を全て奪われてもなお、
「自らの”在り方”を選択する自由は、私自身にある」
と精神が決して誰にも、何にも支配されないことを自ら証明し伝えてきたV.E.フランクルの姿と思想をひとことで思い出させてくれる素晴らしいタイトルだと思います。

パラパラっと斜め読みしてみて驚いたのですが、
フランクルは「実存」として、「the Self」、つまり本当の自分、存在の「本質」を説いているようにも感じるところがありますね。
少し、アドヴァイダ・ヴェーダンタで言う、アートマでありブラフマンの事に通じる部分もあるな、と。

環境にも、他者の価値観にも、私と言うアイデンティティにも影響されない「自己の本質」。

発送前にざっと目を通して、改めて面白い内容だと思いました。
売らなかったら読み返すこともなかったかも。

特に私が共感した言葉を以下に引用させていただきます。
アウシュビッツでの体験、そこで会った人物やフランクルの患者などの具体的な精神状態の考察、思考、そしてその人の行動や発言が詳しく書かれていて、そのストーリーがあるからこそ、下記のフランクルの言葉が自然と入ってくるのですが、
数ヶ月経ってから下記の言葉だけを読んでみても、十分に心に響いてくる素敵な言葉だなぁと感じました。

以下、「それでも人生にイエスという」の引用です

  • 人生の問いのコペルニクス的転換
    「私は人生に何を期待できるか」ではなく「人生は私に何を期待しているか」と問う。
    人生のどのような仕事が私を待っているか。
  • 私たちは生きる意味を問うてはならない。
    人生こそが問いを私たちに出し、問いを提起しているからです。
    私たちは問われている存在なのです。
  • 何をして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでも良いことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲に置いてどれほど最善を尽くしているかだけだ。
  • 人々が簡単に自分の服を嘆いたり、自分の運命に不満を抱いたりするのを目の当たりにすると、誤解も甚だしいと思わざるを得ません。
    運命というものがなかったら、私たちはどうなっていたことでしょうか。
    運命に叩かれて鍛えられることがなかったら、運命に苦悩する白熱状態がなかったら、私たちの生は形成され得たでしょうか。
  • 自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。
    「自分なりに」ということがあったのです。
    仮にほかのすべてのものは取り上げる事ができても、そして事実ほかのすべてのものは取り上げても、内面的な能力、人間としての本当の自由は、囚人から取り上げる事ができなかったのです。その自由は残っていたのです。
  • 環境の力と影響を逃れて「法則性」に服さず抵抗し、「法則性」に盲目的に服従する代わりに「法則性」から逃れる自由があったのです。言い換えると、そのような人(典型的な強制収容所囚人の性格に変わってしまった人たち)もその自由があったのですが、ただその自由を放棄してしまったのです。その自由を行使することをいわば諦め、自発的にそれを断念してしまったのみならず、そうやって、自分自信を、事故を、本来の自分の在り方を放棄してしまったのです。自分の心を没落するに任せたのです。
  • 「知らない」というのは本当は「知りたくない」ということなのだという事が明らかになるかもしれません。「知らない」という裏にあるのは、責任回避なのです。その人は反射的に、責任回避をしなければならないという気持ちになるのです。それは共同の罪を引き受けなければならないことを恐るからです。
  • 人間はあらゆることにも関わらず、困窮と死にも関わらず、身体的心理的な病気の苦悩にも関わらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、人生にイエスという事ができるのです。


知ったら何かしなくちゃいけなくなる。それでも・・・

10代の頃に好きだった作家さんの言葉。

「知ったら何かしなくちゃいけなくなる。
 それでも、私は知ることを諦めない」

小説の中で主人公がこういう場面がある。
10代の頃、私には周囲の同級生たちは「知ることを諦めて賢いフリをしていく事が正しい」と言っているように思えた。
でも、知ることを諦めると言うことは、世界に希望を見いだすことを諦めることだと思って、

たとえ、知ったからといって今は何もできなくても、
それでも、知ることを諦めることだけはしない。

とその小説を読みながら密かに心に誓いました。

知る事で引き受けてしまう責任。
でも、その責任を引き受けるからこそ、変えられる可能性を見いだす事ができるようになるのだと思います。

世界に対しても、自分自身に対しても。


時に何もかもを投げ出したくなるときはあるけれど、
「自分の存在と自分の世界に対する責任」を引き受けられることって、
本当は、それを無視しながら存在し続けるよりもずっと「楽」で、満ち足りていられる在り方なんじゃないかな、とも思っています。

2014年の日記から抜粋

無知の知。
「自分が無知であることが明らかになるくらいなら、無知であることにすら気づかず盲目的に過ごしていた方がいい」そう考える人の多いこと。
だからこそ、自らの無知を認識する者は、無知を知るゆえに知を獲得していく。

原始仏教では、「悪と知って為す行い」よりも、「悪と知らずに為す行い」の方が罪深い。
なぜなら、この行為が悪だと知っていればその魂はどこかでその行為を止めることができるかもしれないが、これが悪だと「知らな」ければ、改善の見込みがないから。

無知はかくも罪深い。