魂の在り方と意識・感覚

この世界は本当に「やらなきゃいけない事」に溢れているのだろうか? – Do Nothingの教え

Navdanya Farm

自然農創始者 福岡正信の思想との出会い

「何もしない」ー Do nothing

2019年のアグロエコロジーコースで、私は無条件に気を許す事のできる友人達に出会った。
ソウルメイト達は、同じタイミングで再会出来るように人生を仕組んでいるのだと思う。

その中の1人、トルコ人の彼女とは30日間、朝から晩までほぼ一緒にいた。
彼氏でさえも一緒に旅行に出かけて数日一緒にいると、1人になる時間が必要で意識して1人空間を作らないとしんどい私が、
なぜか彼女と、もう1人ルームメイトのインド人だけは何時間でもただ隣に座っていられた。
そして、彼女達も「1人になれないと無理」な人たちだったから、私たちは合言葉のように
「私、これまでの人生ではこんなに他人と一緒の空間にいられなかった!!でもあなたは空気みたいに邪魔じゃない!!」と毎日笑いあっていた。

そのトルコ人シーナンは、福岡正信の大ファンで、福岡正信の英語版を必死に読んでいた彼女に、私が図書館で見つけた日本語の福岡正信の本を持って、
「見て!私も福岡の本を読んでるよ!日本語のが置いてあったの!」
と話しかけてから「フクオカ友達」になった。
(私たちの間では、ハローの代わりに「フクオカ」と使っている。
 インドで神様の名前をハロー代わりにすれ違いざまに言い合うみたいな。つまり、信者ww)

私は福岡正信氏が自然農の創始者だとは知っていたけれど、彼の本を読んだ事はなかった。
日本にいる2010年代始め頃、周囲の影響で自然農に興味を持ち始めたものの、本は主に奇跡のりんごで有名な木村秋則さんのものしか読んだ事がなかった。
その頃、福岡氏のことは、ユダヤ人が企てている農業・医療・経済を支配することによる壮大な計画について話しているとか、「畑における農法」としての知識よりももっと大きな規模で社会全体の話をしている印象が強かったから。

でも、インドの有機農家さんや、オーガニックエキスポなどで出会う熱量の高い起業家達の間でやたらと「マサノブ フクオカ」が有名だったから、
インドにいる間に福岡さんの本を読みたくなってしまって。
それが、ナブダニヤの図書館で(しかも日本語で)見つかったから、私は興奮して読み進めたのです。
(↓ナブダニヤに寄贈されていたのは、この本)

衝撃を受けた。

不耕起栽培、雑草を抜かない、無肥料、無農薬

そういうキーワードは知っていた。
土の中の生物多様性を高め、自然本来の、いのち・生態系本来の全体的な力で作物を育む「農法」だと思っていた。

しかし、福岡さんの本は、農法の域を超えていた。

福岡さんは神を捉え、この世界を看破し、時間の概念と仕組みを解き明かし、物理法則を超える可能性についてその仕組みを延々と説明しようとしていた。

私は、福岡さんの本を読み進めながらいつも涙を流していた。

8歳で砂漠の事を知った時に、生態系の、いのちといのちの有機的な繋がりを理解し、
緑化に必要な事は技術力を高めることではなく、「土」の中のいのちを増やすという非常に単純な事だと思ったのに、
それが誰にも伝わらず、長年苦しい思いをし、世界に対して諦めるしかなかった10代の頃。

大人になる前に諦めた「私の核にある思い」が、探していた答えは、
私が生まれた時から日本で出版されていた・・・。

それを20年近く経って、インドのこんな田舎でようやく手に取る事ができたなんて・・・。

福岡正信の名前も、彼が自然農だけじゃなく政治経済に関しても語っていたことも聞いた事はあったのに、
彼の思考に、哲学に触れずにいたのは、
私の準備が整っていなかったからなのだろう。


今やっと、「原点」を知る事ができたのだ。
私がこの人生で、この時代に生まれてきて取り組みたかった事。


アグロエコロジーのプログラムが、朝8時から夜の10時までびっしり詰まっていたので、その合間で読める本の量は僅かだった。
けど、少し読み進めるたびに、私はそれをシーナンに共有した。

彼女は気候変動についてイギリスの大学と大学院で勉強していた。
福岡正信の自然農に出会ったのはほんの1、2年前、大学院に入ってからだといい、
それまで学んできた気候変動に関する対策や考え方が根本から覆された、と言っていた。

Dr.ヴァンダナ・シヴァも福岡正信の影響を多大に受けており、福岡氏がナブダニヤ農場に来た時の様子を語ってくれた。

福岡氏は、現在タネの保管庫になっている建物の屋根の上で、この農園を一望し、
「美しい」
と涙を流したそうだ。

シードバンク
タネの保管庫の前から農園を見た様子 奥に見える木の向こう側にも農地が続く

私と、シーナンは、よく夕方にこのシードバンクの保管庫の上に登って景色を眺めた。
三方に遠くヒマラヤの山々が見える、中国の水墨画のような幻想的な景色。


福岡式自然農法は、Do nothing farming (何もしない農法)だと言われている。

もっとも大切な事が、「何もしない」
人生においても、畑においても。


・・・おそらく、そこに集まっていた私たちは、
ヴァンダナ・シヴァから直接教えて欲しくて、アグロエコロジーを学びたくて、世界中から集まってきた私たちは、
おそらく世間から見たら「熱い」タイプの人種だろう。

熱量が高く、志を持ち、「何かをしたい」と求めて学びにきている。

だからこそ、「Do nothing」というワードは余計に私達に響いた。


「何かをしなければいけない」
「私達人間が、自然を助けなければいけない」
「私達人間が、自然に手を貸さなければいけない」

どの農法も、そういう概念をベースに「何か有意義な事をやろう」としている。

しかし、結局、自然の事は自然に任せるのが一番効率がいいのだ。

畑の中だけで生産性を考える事、
一年単位、5年単位、せいぜい10年単位という限定された時間の枠組みの中で計算される生産性、コスト、環境負荷など。

「限定」すれば、「切り取れ」ば、
「こちらの方法が効率が良い」「こちらの方法が生産性が高い」「こちらの方法だと環境負荷がかかる」
などと、いくらでも都合良く見せる事ができてしまう。

畑の外でいくら負荷がかかろうと、
畑の中でだけの生産量を見て、この方法が優れているという。




人生に行き詰まり何もやる気がなくなった若者達が福岡氏の元で過ごす様子を読むと、
福岡氏が人生においても、畑や自然に対するのと同じようなスタンスでいた事が伝わってくる。

「成長」「発展」「競争」などの思考に駆り立てられた我々は、
自然、いのち、人生(life)が与えてくれている豊かさ、幸福を受け取る事なく、
必死になって破滅と、悲しみ、虚しさへと向かっているのではないだろうか?

我々は、自然によって、いのちによって、森羅万象によって「生かされている」立場。
自然は利用するものでも支配するものでもなく、
私たちを「生かしてくれる」恵だという事を、どれだけ日々の生活の中で実感を持って言えるだろう?

Do nothing farmingは、有機農法よりも、慣行農法よりも、実は生産性をあげている。
栽培にかかるコスト(経済的コスト、労働力、環境負荷)と、生産量(作物の生産量、畑の土中の有機物・無機物の増加量)を比べると、
福岡式の「何もしない」農法が、もっとも「効率」が良いのだ。

生き方においても、福岡氏はDo nothingを大切にしていたけれど、
教えを請われれば話し、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、インドなど世界各地を訪れ、農法を教え、政治家や農学者に会い訴えた。

表面だけ見れば、誰よりもパワフルに行動し、生き抜いたように思える。

彼のように、不要な「思いこみ」や「価値観」から抜け出て、シンプルにただ「生きる」事が、
ファーミングと同じように、
「何かをしよう」と頭で考えて計画するよりもずっと遠くまで歩く事ができる秘訣なのかな、と私は思っています。