シルディ・サイババ
【探求者が熱心に努力し、師を受け入れるほどに熟した時、師は必ず現れる】
私たちにできることは、師を探す事じゃない。
師が現れた時に、受け入れる準備を整えておくことだ。
自分を用意する最も強力な手段は、偉大な大師の生涯と教えを誠心誠意、
知性をもって勉強することである。
(中略)
大師の無限の力と愛は、着実で熱心な探求者の心を掴む。
祈りで世俗的な良いことを願う一般の段階から、
彼は愛と祝福である神のみを求める真の探求者となる。
そのような人は、心を目標に定めて、この世の苦しみの試練を喜んで耐え忍び、
大師についていくだろう。
全てのヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒、回教徒とは、賢人たち、ブッダ、キリスト、預言者の生涯によって真の宗教に引き寄せられた人々である。
シルディ サイババ について書かれた本より抜粋させていただきました。
私が、幼い頃より真実の神を求めて悩み迷って来た道は、
すべて「ここ」に繋がっていたのだと、これを読んだ時に思いました。
ヨガに出会い学び始めるも、私の心を照らしてくれるものはなく、求めて求めて止まなかった。
インドでアサナのクラス、
サンスクリットの勉強、
ヴェーダ、哲学の勉強を目一杯していてもなお、
「違う」という思いが抜けずにさまよい続けた。
みさちゃんは、厳しいねーストイックだねー、
そんなに頑張らなくてもいいよ、
ヨガの教えにもあるじゃん?肩の力脱いてさ。
(そんな教えってあるっけ??と私はいつも疑問に思うのだ)
そう言われるたびに、求めてやまない大いなる「何か」から遠ざかる気がして涙が出た。
どうしてこんなにも求めているのに、見つからないんだ。
そういう気持ちがあっても、一体自分が何を求めて探しているのかはわからなかった。
今振りかえれば、あれだけ求めて止まなかったから、グルが現れてくれたのだと思う。
様々な形で現れ、導いてくれている。
肉体を持って現れることもあれば、
先生たちを通して現れることもあれば、
事象を通じて教えることもある。
2人のリシとの出会い
2012年1月、あるリシ(聖仙)に出会った時に、それまでのヨガの全てを(一旦)捨てた。
一目だけで、その呼吸だけで、受け取れないほどの教えを伝えてくれた。
大きな変化だった。
そのリシに会うまでの経緯を辿ると、その数ヶ月前に遡る。
すべてがうまくいかなくて、
初めて霊性の師としてついた人の家を飛び出して
行く当てもなく歩いていた時、
壁にもたれているとても穏やかなお爺さんに出会った。
不思議な魅力を持つ人で、とても美しくて、
ふと私は、瞑想の先生Mさんを思い出していた。
「同じエネルギーだ。」と。
(* この時はまだMさんは私の瞑想の先生ではない。いつもチャイを飲む店でよく会って一方的に慕っていただけ。)
そのお爺さんと目が合うと、彼はおもむろに言った。
「私と一緒に、○○へ行かないか?」
○○、その瞑想の先生が修行をしているお寺のあるヒマラヤ奥地。
「行きたい・・・、いつ?」
「明日、私はここを発つ。」
「・・・悩むなぁ。急すぎる。」
「まぁまぁ、とりあえず、アシュラムで休みなさい。気持ちが落ち着くだろう。」
そうして入ったアシュラムで、その後数ヶ月、色々と教えてもらうことになる。
サンスクリット、音楽・・・。
私たち一般人のヨガの「クラス」ではなくて、
ヨガの修行を5000年前から受け継ぎ実践している修行者たちとの住む世界の違いなどを、知った。
それは越えようのない、社会の違いだ。
どこまで行っても、私は一般人である。
ということを知る。
そのアシュラムから繋がっていった縁は大きい。
そのアシュラムで何かを教えてもらった訳じゃない。
ただ、出会い、見せてくれた。
それまでは見えていなかった、この町にもまだ存在する「学びの系譜」を。
そして、それが1月のリシ(聖仙)への出会いに繋がり、リシとの出会いが、私に今の瞑想の先生の元へと向かわせた。
日本を知らないお爺さん
アシュラムへとわたしを招き入れたお爺さんは、とても不思議で、
日本という国も知らなければ、飛行機も知らなかった。
パンジット(ヴェーダ、サンスクリットの学校に通うブラフマンカースト)の少年が、
日本はどこどこにある国だよって教えると、
「じゃあ、船で来たのか?一体何ヶ月かかったのか?」
と聞かれた。
「とりあえず、この子にご飯をあげなさい」と少年に指示し、
私を食事場所へと促すと(本当にそこは、場所でしかないのだ!)、
「大丈夫、私はここにいる。向こうで食べてきなさい。」
と言った。
私はおじいさんのそばから離れたくなくて、
食事がはこばれるまでの間、
食べている間、
何度か気になって振り返っては、おじいさんが同じ岩の所に腰をかけているのを確認した。
でも、食べ終わるともういなかった。
そこで修行しているババやセバ(奉仕)している人たちに聞いても、
「そんな人いたっけ?」
と首をかしげる。
通訳をしてもらって、パンジットの少年にも聞いてもらったけれど、
話が噛み合わない。
後から知ったけれど、そこのアシュラムには小さな部屋が数部屋あるだけで、
スワミ、ババ数人、見習い一人、少年1人、パンジット(神職)数人、の他に誰かが泊まればすぐにわかる。
少年は、お爺さんは最近ここに泊まっているんだと言っていたけれど、
ババたちは知らなかった。
(スワミは、数ヶ月の間、私には会ってくれませんでした。)
おじいさんは居なくなってしまったけれど、
私は、アシュラムがあるのかよくわからない開けた土地にある
「アシュラム」と呼ばれる空間に出入りさせてもらえるようになり、
一般人として学んできたヨガと、
何が、という事は説明のつかない、何か全く異なるヨガとのギャップに苦しみながら過ごした。
友人達はその 空間 に来る事はなかった。
なぜなら、友人達とその場所に行っても、
いつも誰も現れなかったから、
そこはただの川原であって、「アシュラム」にはならなかったのだ。
ちなみに、全員普通に肉体を持った普通の人たちで、
道端ですれ違う事もあった。
外で話したりする事はなく、目もほとんど合わせず、軽く会釈をしてくれる程度でした。
彼らは、自らの修行の邪魔になるような人たちの近くにはいかないから、
私が他の人達とその「場所」へ行っても、寄ってこないか、
もしくはどこかへ出かけていていなかったのでしょう。縁です。
帰国後
それから数ヶ月して日本へ帰ってきて、
今の瞑想の先生のところへ「何やってるかわかんないけれど、Mさんがやっているヨガを教えてください!!」(笑)
と伺うと、
シルディサイババの像があった。
(あ・・・、あの時のお爺さんは、この人だったかもしれない。)
姿かたちではなくて、エネルギーが同じだった。
「リシケシのみさちゃんの部屋に、(シルディの)ババいたよね。」
と言われて思い出す。
そうだ、その部屋を借りた時から、立派なシルディ・ババの絵が飾ってあったのだ。
私が気づいていようが、いなかろうが、
「私はずっと、一緒にいたぞ。」

と、してやったりな顔で笑われた気がした。
いつどんな時だって、私がここにいることを、
常に忘れずにいなさい。
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