魂の在り方と意識・感覚

わたしが世界を認識しなかったら世界は存在するのか?_No.1 サーンキャ哲学とヴェーダンタ哲学

1月に意識が変容して以来、肉眼でも、内的な視点でも、見るもの全てに対する認識が以前とは全く変わってしまいました。

思考、感情などを含め、見る事の出来る事の全てが「わたし」ではない事がわかりました。
ただ、それでもパーソナリティーが完全に消える事はありません。
消えるけれど、消えない。
「わたし」は、この個人としてのパーソナリティ、アイデンティティを持って初めて、この世界に現れる事が可能になるからです。
「わたし」が語る言葉は、多少なりとも「この個人」の個性を利用しながら現れ言葉となりこの世界に発せられます。
「わたし」の説明には、多少なりとも「この個人」の個性が織り込まれながら表現されます。

呼吸も、
行為にも、
世界に常に発せられている波動にも、

「わたし」が、この個人のもつ何かしらの「物質的要素」と融合する事で世界に現れてきます。

「わたし」が認識している世界は、ノンデュアリティ(アドヴァイダ・ヴェーダンタの不二一元論)そのものなのですが、
同時に、サーンキャ学派が説く世界の展開論がとても明確に、すべての瞬間に「起こっている」のがわかります。
「わたし」と「個人」の融合による世界が生み出され続けるさまがどの瞬間、どこをとっても明らかなのです。

サーンキャでは、世界を因数分解し根源へと遡っていくと、これ以上は分解できない大元として、根源意識(プルシャ)と、物質的根源(プラクリティ)にたどり着く、と説かれます。
つまり、世界は2つの根源、大元から成り立っている、と言うのが二元論(デュアリティ)です。

このサーンキャの説く二元論に対し、
ヴェーダンタ学派などは、一元論(ノンデュアリティ)を説きます。

世界はたった1つの根源=ブラフマンから成り立っている。
ブラフマンのみが真実であり、全てがブラフマンの現れで在る、と。

ヨーガ学派は、サーンキャ学派の説く世界をベースに、そのプルシャとプラクリティを識る為の実践的方法を説いていました。

なのに、なぜ、現代のヨガの世界はヴェーダンタ 一色なのか??

と言う疑問が私がインド哲学にハマってしまったキッカケなのですが・・・
それは当時の日記へ引き継ぐとして、(↓)

サーンキャ哲学


どちらも間違っていませんし、どちらの理論も矛盾していません。
一元論と二元論は意味が違う、と言うのは、マインドの・・・概念の世界での話です
概念的に、「そりゃあ、どの宗派もどの宗教もどの哲学も、最終的には同じ地点にたどり着くよね」なんて言うのは詭弁です。
わかったつもりになるのではなく、実際にそれを体験しなければ意味がありません。



さて、現在、世界を認識している純粋意識そのものが「ブラフマン=わたし」なのですが、
ブラフマンが認識しているもの(対象物)はすべて、「世界の現れ」です。

これを個人的に、
ブラフマン = 真我(本当のわたし)= プルシャ
世界の現れ = 「プルシャとプラクリティが融合し展開したもの」
と感じています。

ヴェーダンタ的には、「ブラフマンにすでにプラクリティ(的な何か)が含まれているのだ」とされていますし、サーンキャでは「プルシャとプラクリティの融合」などどは記されず、世界はプラクリティの展開したものと言われますが、便宜的に(勝手に)置き換えています。
(私の理論ですが)そもそも、プルシャが何かを認識する時点で・・・つまり、認識の対象物が存在する時点で、その対象物はプラクリティ(物質)そのものではなくプルシャ(意識)と融合した結果の創造物なので、一元論者からしたらプラクリティが根源とは言えない、と言う感覚も納得だよね。



そして、マインドは精神的(ここでの意味は意識)なものだと、
一般社会では見なされますが、
マインド(精神)はプラクリティ(物質)が展開したものです。
心も、精神から派生したものであり、つまり、プラクリティから展開した物質です。

10年前にサーンキャを教えてもらっている時に、知性、思考、概念などの「精神」が、プラクリティが展開し現れたものだというのがどうしてもわからなかったのだけど、
今は、なるほどなるほど、その通りだ、と思うのです。

私は「プルシャとプラクリティが融合し展開」と書きましたが、
厳密にはサーンキャ理論では、「プルシャは永遠に変化することがない実体」だと定義されています。(融合という表現は正しくありません)
プルシャが見破ることによりプラクリティとの均衡が崩れ、プラクリティ(物質原理)が展開を始める、とされています。
プルシャが「認識」をしなかったら、プラクリティは原理のままであり、世界は展開しない。
しかし、プルシャに見られることにより、物質原理が様々な形へと展開していく。

まず作られるのが、「知」の性質であるんですね。
自我意識も、一般的に我々が思っている「認識力」も、想像力も、プラクリティの現れです。

スワミジ、あなたがヴェーダンタを理解するためにはまずはサーンキャを理解しなさいと言ってくれたおかげで、10年後にようやくその恩寵がどれほど貴重なものだったかを理解することができました。
ありがとうございます。

違和感の先に


そして、この事を感じていると、最近よく10歳の頃の体験を思い出します。

十分には言葉にできなかったし、頭での理解は当時の私には限界があった。

でも、その感覚を思い出すことはいつもできていました。
その感覚が、「神」なのだと言うことは何となくわかっていた。
あの時に神を体験し、この世界の仕組みをしり、感覚として認識するだけで、
その体験自体に、何も定義づけなかったことが、この個人として素晴らしかったな、と思う部分なのです。

その体験に価値を与え、ジャッジを加え、そこにとらわれてしまわなかった事。
なぜなら、マインドがそれに価値を与え、判断し、ラベリングする事で、真実から遠ざかり体験は失われていたから。
何もそこに判断をおかず、とらわれなかったために、
その時の繊細かつ明確な「感覚」は、それ自体が私と言う個人を真実へと導き、歩かせ、
この個人としての命を体験させ、否応無く真実へと惹きつけてきたからです。



その時の体験については、次の記事で書きます。

続き↓

わたしが世界を認識しなかったら世界は存在するのか?_No.2 神の直接的体験(とその忘却)












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