魂の在り方と意識・感覚

[空]はじまりの場所

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

日本人であれば、【空】くう、という言葉やおおよその概念は持っていると思います。
その、くう 空 です。

新年なので、ずっと秘めていた空について。

まず、2012年9月に掲載した「神はどこにいるの?」から。
神は、愛の中にいます。
そして、愛はいたるところにいます。
一見すると愛の仕打ちではないような出来事の内にも、神の愛を見出せる人、そんな人には神の祝福がさらにやってくるでしょう。
faithful です。

そして、それがこの世界にある唯一の真実=アートマ です。
それを、神と言っても、愛と言っても、真実と言っても、グルと言っても、
どこにも違いはありません。
そんなことにはとらわれずに、愛を見つけようとしなさい。
外がどんなに荒ぶれても、
そこは常に平穏です。
この人だ、と思える人にであったら、充分学んでその人のところを卒業できると感じるまで、ついて行きなさい。
あちこちに手を出すことは、一番効果のないことです。
ふと乱れた時にこそ、すでに学んだことを実践しなさい。
もう、すべて知っているはずです。
わかっていますね?
解決策と真逆のことが、
「あなたが学んだことを今この瞬間、実践していない」
という事だと。
息を吸って、息を吐いて。

大丈夫です。

どこにいても、何が起こっても、何に惑わされていても、
愛に気づきなさい。
少しずつでいいから。

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空について書きます。
空とは、愛すら超越した場所でした。

おそらく、到達したのは9月の3日間の集中瞑想講座の時だと思います。
ただ、その時はまだ私には空のエネルギーによって噴出するカルマが残っていたのだと思います。
とても言葉に置き換えることのできないめまぐるしい嵐のような体験・・・とでも言うしかないのでしょうか。
気付きと記憶と全ての感情を、走馬灯のように体験したような、
はたまた何もなかったとしか言いようがないような・・・
でもやっぱり、吹きすさぶカラフルな暖かい嵐の中を目を凝らしながら必死に進むような日々だった、というのがしっくりくるかも。

三次元の日常でもカルマの解放が続き、おかげで最後までこびりついていたエゴという価値観に気づくことができました。
噴出したカルマが、徐々に散り去り消えていくと、
既に空に到達していた事に気づきました。

それは、とても冷たく、無味乾燥で、とても【愛】などというものが存在する場所ではありませんでした。
色も、温度も、優しさもない。
何も、ない。

9月の瞑想に、私は「神を見たい、姿を見せて」と願い続けながら臨み、
途中から、「私が神とはこういうものであるかもしれない、と想像しうる全ての思い込み(期待)を手放しきれずにいるから、見えているのに認められないのだ」ということだけは否応なくわかり、とても苦しい思いをしました。
エネルギーの高さだけは、もう先へ到達してるのに、認識というフィルターを牛耳っているマインドがそれ以上理解できなくて悲鳴をあげて壊れていく感じ。

そして、1、2カ月かけてマインドが完全に崩壊し、そこにある空をそのまま感じてしばらく過ごしていました。

それは、世界の源でした。
小学生の頃から問い続けてきた、「この世界という現象は一体なんなのか、認識とは何か」についての答えに辿り着いたと言えるもの。
世界とは、コレである。というものが、実感として「在る」。
それは、インド哲学のサーンキャが解説する世界の成り立ち、そして展開論と同じでした。ただ、量子力学でも、仏教でも、他のインド哲学の論理でも、言葉が違うだけで「コレ」の事だと思えるものでした。あぁ、これコレ・・・みんな上手に説明してるなぁ〜と(笑)
ただ、どの説も完璧ではなく、どうしても一部分しか語れていないもどかしさも。

ただ、その根源に辿り着き、そこに留まる事は容易ではありませんでした。
先ほども書いたとおり、そこには「何もない」のです。

絶望もなければ、希望もない。
形もなければ、色もない。
愛も、活力も、欲望も。

三次元の日常的感覚でいうような、明るい愛に満ちた天国なんてものとは程遠いもの。

この根元で意図した世界がそのまま現れる。
この根源と【世界】に、繋がっていない部分は全くなく質的に異なるものも何もない。

冒頭で、神は愛の中にいます。と書いた。
瞑想から抜け出てマインドが働いてくると、私自身も疑問に思った。
神は、愛の中にいるんじゃないのか??と。

その疑問はすぐに解消された。

空は、神を凌駕している。

神という概念、愛という概念は、空に比べればまだ荒い波動が残っているのだ。
私たちのカルマとかの波動に比べたら、とんでもなく繊細で軽くて柔らかいエネルギーですけど・・・。
それでも、空は・・・源は・・・神や愛すらを創り出している、源なのだ。

空というものを、当然一つの記事で説明できる訳がないのでこれくらいにして。

私のマインドレベルに落として話を進めましょう。

私は、狼狽した。(というのもおかしいけれど。間違ってないのはわかっていたから、精神レベルで困っていた訳ではない。)
だって、「やる気」が見つからないもの。
根源に留まってて、ここから何かを「意図する」事で、その世界の根源に活動エネルギーが生じて、その(空から見たら)重いエネルギーによって、世界(物質も)展開していく、って事はわかるけれども・・・
いや、なまじっかそんなの目の前にしているからこそ、
そこに活動エネルギーなんて生じさせたくない。

何もしなければ、完璧な状態であるのに、
なぜ「期待する」事によって、「願う」事によって、「意図する」事によって、
波動を物質次元まで下げて三次元で生きなきゃいけないのか。

あえて言葉にすれば、そんなような事を思っていた。

でも、生きてかなきゃいけないような気はするし、
とりあえず、無理に何かを生じさせるのも無意味な気がして、
短期の仕事を見つけてそれで毎日を過ごしながら、これからのこととかいろいろ考えるのもやめて、淡々と瞑想を続ける期間を作ろうと決めた。
ヨガのレッスンも、できるけど・・・出来ない。今はするべきじゃない、と思った。

そうして、日常では色々こなしながら、誰に見せるわけでもなく自分の成長をのんびりと見守った。

その最終的な決断や答えが何であろうと、どうでもよかった。とにかく、流れに漂い、さらに観察を続けた。

ある方からも指摘を受けたけれど、
一時期、おそらく私の体は消えかけようとしていたかもしれない。意識が、肉体にほとんど残っていなかった・・・かも。

それでも、自然と肉体にだんだんと戻ってきて、
そして、冬至頃を境に、明確になってきたものがある。

それは、
空という状態から、意思が生まれて世界が展開したという奇跡に対する、おかしさだった。
面白すぎて、笑っちゃう。

そもそも、そうやって、世界を創り出したんだ。
世界の最初の「意思」が発動した途端、波動にバリエーションが生じて、こうなった。
なんて、単純な遊びなんだ、と。

昨年(2013年)の仏教聖地巡りの最終地点で、私は、向き合いたかった過去生の、生まれる前を見た。
シッダールタという人が、悟り仏陀となる為の壮大なプロジェクトに、敵も味方も家族も友人も、私も・・・参加したくてしたくて、その役をやりたくてやっただけの事なんだ、って知った。
その役を演じる上で、惨めな思いに悩まされる事も全部承知の上で、それでも参加したかった。

あのプロジェクト、楽しかったね〜って、参加した無数の、無限の存在がそこにいたように感じた。

空の中に、意思を持つことは、それに似てるなって思うようになってきた。

そして、

あぁ、私に足りなかったのは、【意思】だったのか、と気づいた。

ババ助けて、私を連れていって、ババここに来て姿を見せて
ババ、私はこれから何をしたらあなたの手足としてあなたに仕えることができるの?

ずっとそう問いかけていた。
自分のエゴを手放したくて、意思を放棄し続けてきたけれど。

空には動的エネルギーがない。

そこには、私が意図するという動的エネルギー(ラジャス)を発生させる必要がある。

その上での世界で、私はきっと為せるのだろう、神に仕える為の何かを。

うまく伝えられたかどうかはわかりませんが、
結論を言いますと、

助けを求めて泣き続けるしかなかった赤ちゃんが、
ようやく自分の足で歩く事に決めたんですよ。
って事です(笑)

【意思】を持って、【意図】して、創り出す。

とても強い覚悟を、この新たな年の始まりの、
新たな月の始まりの日に持つことができました。

今年は、力強く創造したいです。

旧年中は大変お世話になりました。
これからも、どうぞお付き合いお願いいたします。