マインドフルネスという罠
この事については、私が心から「ヨガ仲間」だと思うほんの少数の友人たちとは昔から語っていたのだけど、
世の中の「マインドフルネス」に対する過大評価の風潮から、発言は控えていた。
でも今年の1月からの意識の変容によって、
私の中ではこの「マインド」を捨てることの重要性が何よりも大切だと改めて実感しているのと、
Twitterで呟いたら意外と反応が良かったので、
あら、時代が進んだのかしら?
と思って書いてみるのである。
マインドフルネス Mind- ful- ness とは、文字通り、マインドが満ちている状態。
これこそが、アメリカ的思考の最たる特徴でもある。
彼らはマインド至上主義で、マインドが全てをコントロールできると信じている。
マインドをよく育て、
マインドをよくしつけ、
マインドを発達させ、
マインドを成長させ、
理想の個人が完成するのである。
個人的に、このこと自体を私は否定しない。
私たち現代を生きるソーシャルビーイングにとって、
マインドをより良く発達させることは個々人の責任でもあると思っている。
一方で、
それはヨガなのか?
よく躾けられ、よく発達したマインドは、我々を解脱へと、究極の解放へと導くのか?
ここが問題なのです。
ヨガの目的は何か?ヨガの教えは何か?
カリユガ期には、人々は真実を知ることができない。
たとえそこに真実の教えが存在しても、私たちはそれを正しく理解することができないのだ。
今はまだカリユガ期で、仏陀が悟った時代もカリユガ期だった。
仏陀という覚者が何を言っても、キリストという覚者が何を伝えても、シルディ・サイババという覚者がヒンドゥー教徒とムスリムの垣根を超えて信仰されても、
私たちはその存在の意味を、教えを、
ほとんどの場合において正しく理解できていないのだ、
ということを、まずは真摯に受け止めるべきだ。
なぜならば、このマインドフルネスが霊性修行やヨガの道において全く意味をなさないどころか、害悪にさえなっていることについて、
多くの人が「でもそう教えられている」と反論するからである。
その教えは、誰からきているのか?
その教えを繋いできた人たちは本当に真実を理解していたのか?
そして何よりも、「でもそう教えられている」と語っているあなた自身がどうなのか?
貴方には「何が正しい教えなのか」「誰が真実を語っているのか」を識別するだけの意識に目覚めているのか?
私たちは、いつもその点を鑑みなければいけない。
自分自身を振り返り、果たして私は真実を見極める目を持っているのか?と。
私たちは
それを持っていないと言うべきだろう。
卑屈になるわけではなく、謙虚でいるべきなのだ。
真実に対してオープンでいないといけない。
鎧を外し、「私はわかっていないのかもしれない」と言う不安定さを受け入れるのです。
謙虚さは、自信のある者にしか備わらない。
私たちは大抵の場合、謙虚と言う言葉と「自己否定」「過小評価」を混同しているのだ。
自信があるから謙虚でいられる。
「私はわかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない。」
その不安定さに立つことができるのは、何物にも左右されることのない絶対の自信を持っているからである。
そしてその自信は、
マインドを育て、個性を育て、アイデンティティを育てた先には存在しない。
マインドは、純粋意識ではない。
目覚めるとは、マインドを超えて、その純粋意識そのものになることです。
マインドは主体ではなく、客体。
マインドを認識している主体は何か。
マインドをコントロールしようとしている主体は何か?
マインドが「みさ」というアイデンティティを形成しているのであれば、
マインドは年齢や性別、国籍や性格といった「条件」と変わらないのです。
マインドが意識と訳されるから混同します。
この記事では
マインドはマインド、純粋意識をAwarenessということに決めましょう。
Awarenessはコントロールされることがありません。
Awarenessは変化することがありません。
Awarenessには成長も、退化もありません。
Awarenessは森羅万象の全てが存在する原因そのものです。
Awarenessから全てが生じます。
生じたものはコントロールされます。
生じたものは変化します。
森羅万象は、Awarenessの現れであり、客体です。
マインドは、思考であり、私たちは思考を変化させることができ、思考を選択することができ、
また、思考を広げることができます。
マインドを広げることで気づきが広がる、と貴方は言うでしょう。
それを目覚めと言う人もいるでしょう。
気づき、目覚め。
確かに言葉にしたら、そうとしか表現できない。
しかし、マインドはマインドなのです。
永遠に客体です。
なぜなら、マインドは主体ではなく、客体であり、対象物だからです。
私は誰か?ノンデュアリティの矛盾
「私は誰か?」ー A
「私が消える」ー B
ノンデュアリティ(非二元)を語る時に使われるこれらの2つの言葉。
Aの文中の「私」と、Bの文中の「私」は全く異なるものを指しているのがわかるでしょうか?
A では、私とは、Awarenessの事を指しています。
アイデンティティを構成する要素ではなく、私と言うアイデンティティの全てを「認識している」主体のことを指しています。
瞑想しているのは誰か。
マインドフルに世界を認識している、その主体は誰なのか?
ここに個性はありません。
Awarenessは全て同じであり、そこに「みさ」も「マハラジ」も「仏陀」も「キリスト」もありません。
同じことなのです。
だから、覚者たちは同じだと言われるのです。
仏陀に導かれるのも、シルディ・ババに導かれるのも同じことなのです。
導いているのは、現れようとしているのは、Awarenessそのものでしかないからです。
一方で、Bが指している「私」と言うのは、イコール「みさ」です。
貴方が今生、「佐藤A子」として存在しているのであれば、Bが言っているのは、「佐藤A子が消える」ということです。
客体でしかないですからね。
佐藤A子と言う客体はこの世界、貴方の世界に残るでしょう。
でも、「私」は佐藤A子ではないと識るのです。
突然にそのことがわかるのです。
私は意識そのものであり、そこには何の違いもなく、ただ認識だけがある、と。
そのことを、「私が消える」と表現されるのです。
ノンデュアリティを語る中にも、マインドを育てるものが多くあります。
個性を育て、「佐藤A子」を成長させるテクニックが多く売られています。
言葉に踊らされないでください。
冷静に、それが何を意味しているのかを見極めてください。
マインドを超えない限り、Awarenessそのものにはなれません。
テクニックは、マインドに力を与え、マインドを増幅させます。
それで、ヨガの目的は?
ヨガの目的は解脱です。
真実を識ることと、究極の解放は同じことです。
真実を知った時、全てから自由になるからです。
そうは言っても、肉体を持っている限り、肉体の制約があります。
それが肉体を持って生まれて体験をしている醍醐味でもあるからです。
肉体を持っている限り、多少なりともそこに制約が生じます。
だから肉体の制約をほとんど持っていないかのように見える聖者でさえ、「肉体を脱ぐ」と言われるのです。
ですが、その制約がそこにある事を「外さなければならないもの」だという思い込みはないでしょう。
さまざまな制約がある事に対して、あるがままにみることができるからです。
それは存在する何かに対して「ノー」と言わない、ということではありません。
客体には、イエスもノーも存在しますし、正義も悪も存在します。
肉体を持って存在している「個人」として、社会に存在する「一個人」として、
通常の意味での「私というアイデンティティ」として、
するべきことを行い、迷い、悩み、行動を選択する事自体に、目覚める前と目覚めた後での違いは存在しません。
ただ、「気づいているか」「いないか」の違いです。
それは非常に大きな違いであるのですが、
表向きには何も変わりません。
ただ、起こるべきことが起こり、やるべきことをただやらされていく。
行動が生じ、生じない時には生じない。
私自身のスタンスが変わります。
愛が常に溢れているし、いのちが生じているのがわかるから、
それが生じるままに現象が生じ、私は生かされているだけだと感じるのです。
ちょっと横道に逸れてしまうので本題に戻します。
ヨガの目的は、このAwarenessでいることです。
純粋意識に気づくこと。
客体としての私ではなく、本来の私に気づくこと。
「本来の私」には「私はこういう特徴があって・・・」などという個性は存在しません。
神そのものであり、宇宙の源それ自体であり、
光そのものであり、真実そのものです。
対象物、認識できる何か、条件付けできる何かとしての「私」ではなく、
Awarenessそのものであること。
そのためには、マインドを超えないといけないのです。
マインドを捨てるのです。
何もしようとしない。
何もコントロールしない。
何も掴もうとしない。
何もわかろうとしないでください。
マインドはすぐに「わかろう」とします。
ジャッジメントを手放します、とアファメーションをして、手放したつもりになって「何かを掴み」たがります。
手放してください。
全てを手放すのです。
貴方が誰なのかさえ。
貴方が育ててきた自分自身だと思ってきたものの全てを失うのです。
それはマインドにとっては簡単なことではありません。
マインドにとって、自分だと思ってきた世界の全てが崩れ去ることは、「私という概念の死」を意味するからです。
でも私というマインドは死ななければいけません。
そして、マインドはそれを受け入れることができません。
マインドフルネスは間違っているの?
もし、マインドフルネスとヨガを混同しているのなら、私はそれは間違いだと言いたいです。
いくら詭弁を並べても、マインド次元に悟りは存在しないし本当のヨガがそれを教えている事実を私は読んだことも聞いたこともないです。(現代のヨガビジネスさん達はマインド次元の悟りをかたってるけどね)
ただ、マインドフルネスに意味がないかと問われれば、
私はマインドフルネスは多くの人にとって効果的な手法であると答えたいと思います。
貴方は何を目指していますか?
究極の真実を知ることでしょうか?
悟りでしょうか?
目覚めでしょうか?
貴方の内なる真実がそれを求めるのであれば、
遅かれ早かれ、貴方は真実を掴むでしょうから、マインド次元を越える時がくるでしょう。
それとも貴方が目指しているのは、
目覚めや解脱ではなく、
「佐藤さん」としてよりよく、楽しく面白く生きることでしょうか?
そうであれば、マインドフルネスはきっとその良い手助けになるのではないでしょうか?
皆が皆、究極の真実を求めているわけではないのです。
究極の真実を求めるべきだと誰かに言うつもりもありません。
なぜなら、その「渇望」は自然に生じ、それを求める人たちにはその手がかりがやってくるからです。
私が伝えたい、その「衝動」を持っている人たちには、
私が勧めなくてもこの言葉が届くでしょうし、
広がっていくでしょう。
もし、その衝動がどんどん強くなり、
真実を知りたくて知りたくで仕方がないのであれば、
マインドを捨ててください。
「あなた」と言う個性が全て消えることを受け入れてください。
一度、精神的な死を受け入れるのです。
世界が崩れていくように感じるかもしれません。
でもそれこそが恩寵なのです。
外側に何の問題もないのに、
私自身も、大切なひとも、夢も希望も、何もかもが消えるのです。
生きる気力も、死にたいという気持ちも、
何も無くなるでしょう。
それでも大丈夫です。
起こることがおき、世界が生じては消えていくことがわかります。
「私」はただ、その一部であり、森羅万象としてやるべきことが生じ、
「個性」として存在することが再びできるようになります。
きっと以前の「個性」とは何もかもが違うでしょうが、
周囲にはわからないでしょう。
でも、貴方はいのちを全うすることのできる愛おしさを知るでしょうし、
一瞬一瞬が奇跡であることを知っている状態になります。
だからこれまでと同じように、
でも、すごく異なる方向性を向きながら、生きていくことになると思います。
誰かに理解してもらう必要はないのです。
もう、そんな必要性が消えるのです。
Awarenessと言う意識そのものの視点から、
「ここ」から、世界が広がって生じていることがわかるからです。
どうぞ、その衝動に従ってください。
その衝動こそが、苦しいほどの渇望が、真実への唯一の鍵であり、
恩寵そのものですから。
貴方のその願望が、渇望が、成就しますように。
真実からの祝福がありますように。
コメントを残す