魂の在り方と意識・感覚

私たちには「瞑想」ができない


「今日は、瞑想しました」
って私たちは言葉を用いるし、
色んな「瞑想法」を使って瞑想を試みているけれど、

究極的な意味での「瞑想の状態」ではない。

どれも、「瞑想という状態への準備段階」なのだと思います。

誘導してもらったり、観察したり、全部手放したり、ジャパしたり・・・色々な方法があるけれど、
どれも、「ある状態=瞑想」へと向かうための一つの方法(道)。

その意味で、私にとってアサナの時間も呼吸の時間も日常生活も、どこも変わらず全部ヨガです。
すべてが「瞑想という状態」へと向かうための道だから。

色んな方法を試してみて、感触を味わって、いい感じとかうまくいってない気がするとかいう思考にも惑わされてみる。

そんな一つ一つの経験が、何よりも大切で、
「瞑想できてる気がする」のも、
「瞑想できてない気がする」のも、
どちらも同じ今日の一歩。

瞑想は「する」ものではなく、「ある」ものだから。

求めている限り、その状態にはなれない。

だけど、その状態へ至るためには、求めて何度も経験を重ねていくという学びが不可欠だ。

ある時、それは「やってくる」。
それ自らが起こる、ものだと思う。

私たちが瞑想と呼んでいるもの、それは瞑想ではない。

でも、私たちが瞑想と呼んでいるものは、確実に私たちを瞑想へと近づけてくれて、
私たちの魂に、何かを積み重ねて(あるいは逆に次々とカルマを解放させて)くれる。

かなり慣れた瞑想者であっても、瞑想と呼んでいるものをしている最中に、瞑想の状態へと一瞬たどり着いては、また「瞑想ではない」状態へと引き戻されるのだと思う。

でも、それでいい。

そのようにして、近づいていくことこそ、「瞑想と呼ばれるもの」が使われる理由だから。

瞑想とは、「何もせず座っている」という行為のことを差すのではない。

瞑想とは、意識の「とある状態」の事をさしている。