魂の在り方と意識・感覚

カルマの解放 集中瞑想講座2日目

2日目。
朝、近所の大きな公園まで散歩してから、カフェで本を読もうと外へ出た。
東京の、マンションの立ち並ぶ中にいるのに、
「あれ?インドにいるみたい!?何のデジャブだろう?太陽の光?」
と思った。

この感覚が懐かしくて、失いたくなくて、その場で腰かけて、しばらく佇んでいた。
インドにいる時、朝のヨガや瞑想やお祈りの後に町へ出てきた時と同じ光と風。

懐かしくて、懐かしくて、また涙が出てきてしまう。
外で泣いたら変な人だから、と自分に言い聞かせて仕方ないから歩き出す。

昨日から読んでる本が止まらない。
1ページ1ページが心に突き刺さり、自分の今にリンクする。
この本を読まなくちゃ、と数日前から思っていて、昨日先生が持ってた本を借りて読み始めた。
「今」が読む時だったんだ、と思った。

最初の瞑想では、マインドのうるさいものがなくなっていて、
ただ静かというよりも、ごちゃごちゃはあるんだけれど、遠くでザワザワしている感じに変わった。
何もない静けさではなかった。
でも、とりあえず何もなかった。

二回目、同じように自分の奥深くに留まろうとしていたら、
さらに奥に入っていきたいのだけれど、あるところまで入っていくと(?)、

棘だらけの中をかいくぐっていかなければいけなくなった。
敵意の棘。
ババ、痛い、助けて、私の瞑想を導いて下さい。ってお願いして、
呼吸を繰り返しながら、少しずつ中へ入っていった。
これは、マーヤ(自分の意識が作り出している幻)だろうか、とも思いながら、出来るだけ状況をコントロールしないように、
「ババ、これが私の幻(見たいものを見たいと作り出している遊び)だとしたら、私のマインドを鎮めて、私を真実へ導いてください」
とまた呼びかけた。

普段のシャンカラの瞑想では、私は瞑想中にこういったマハトマや神へのおしゃべりや問いかけはしない。
けれど、この時はもういつもと全然状況が違って、当たり前の様にどんどんいろんな事をしていた。

ふと、棘に当たっていくら傷ついても、血が出ても、
私自身は全く怪我をこうむっていないことを思い出した(?)
大丈夫、しっかりと目を開いて進みなさい。
支えられている気がした。

私自身の棘に、身体中を引っかかれながら奥深くへと入っていく。
大木の根っこのような部分に着いて、瘤のように膨らんだ根元を開くと、怒りに満ちた赤ちゃんが、木に怒りのエネルギーを吹き込んでいた。
抱きかかえて、ごめんね、ごめんねって言いながら、マザーや何かにこの子を救ってください癒してくださいって懇願していた。
グッタリした赤ちゃんが癒されるように、そしてこれからはこの根元から聖なるエネルギーが流れるように祈っていた。

呼吸を整えて、「今ここ」に集中させた。
まだビジョンは続いていた。

どういう展開かは忘れたけれど、
私自身が温度のない(?)青い炎に包まれて「焼き尽くされていく」と思いながら、炎の中で瞑想し続けた。
途中から赤ちゃんも一緒に焼かれていった。

一日目、そして二日目のここまで、もう見たくない!!というほどさまざまと自分自身の欠点と向き合った。
どこまでもどこまでも浮かんでくる、私の欠点のパターンに、指摘されて傷ついた心、納得できないものに対する怒り、どうしても流せない特定の人たちの態度。
悔しくて、惨めで、情けなくて、申し訳なくて、顔をしかめながら泣いてたと思う。
めっちゃ苦しそうな顔しながら座ってるの、ハタからみたら笑えるだろうな(笑)

・・・苦しかった。

ここで感想を聞かれた私。
気持ちとしては、

ぜぃぜぃ、つ、疲れた・・・囧rz

って感じ。

ちょっと休憩して、そこからはひたすら
アサナ、プラーナヤーマ、瞑想、の繰り返し。

もう色々は浮かんでこなくて、とても深くに沈んでいる感じで、
でもずっと「何か」はあるんだけれど、
それは何なのかわからない。

ただ、今の気持ちは「どんより、です。」

「ポジティブとは正反対の・・・」

と言ったら、

先生「はい、いい感じですね^o^♪ ハハハ」と。

2日目の夜、そこにいっぱい来てくれているというマハトマ達に、頭を下げて祈った。

【どんな辛い気持ちも耐え抜きます。
私の中にある「 」を知る事への障害となっているもの(カルマ)を、今夜全て取り除いて下さい。
この夜がどれだけ苦しくてもいいです。今夜じゅうに全ての私の欠点、障害を見せてください。知らせてください。
そして、明日は、「 」が何であるのか、私に見せてください。お願いします。
・・・もうこれ以上、「 」を知らずに生きていくことは出来ません。お願いです、助けてください。】

土下座して祈った。
泣きながら祈った。

きっと、応えてくれる。

そう信じてた。