ヨガのインストラクターじゃないです、私。
という、ジレンマ。
私は元々ホットヨガのインストラクターで、でもそのインストラクター生活を極める気はなくて、すぐ事務で就職した。その後も自己ケアの為の便利な趣味になっていればいいと思ってた。
それとは全然別に、「ヨガして自分を見つめたい」と思ってインドへ行った。
そもそも(一時期)インストラクターだったくせに、資格を取ろうとか有名なところへいこうとか、その後のキャリアに役に立ちそうなコースに参加しようとか、一切思いつかなかった鈍い私を褒めてやりたい(笑)
とにかく、内に篭りたかった。
もちろん、「日本は海外アレルギーがあるから、インド帰りっていえば、箔が付くでショー☆」とは思ってた。
でも、行ってやってみたら、運よく色んな人にであって、そんな考えは変わってしまった。
以前のようなインストラクターに戻ることはとりあえず出来なくなった。
でも、じゃあ何を教えて何を求めればいいのかわからなかった。その後はひたすら模索だった。
インドへ再び戻っても、何を学べばいいのかがずっとわからなかった。
学んでるのに、満足できなかった。
「ヨガ」と「ヨガを利用してるもの」の板ばさみ状態だった。
日本にいても、インドにいても。
日本でヨガを全くしたことがなくてインドでヨガにハマって勉強している何人かから、
「別に日本で流行ってるヨガが、運動とか形式的なスピリチュアルだとしても、自分が学んだことを伝えればいいだけじゃない?」
とさらりと言われるたびに、わたしは考えすぎなのかな?
私が不器用すぎるのかな?
この人たちだったら、伝えたいこと、簡単に伝えていけるのかな?
と、落ち込みつつも、「でも、日本の状況をわかってないよ!」とも思っていた。
最初のインドから二年。
私はインドでヨガを通して大好きな友達にたくさんたくさん出会ったけれど、
「ヨガの同志」だと勝手に思っている同じものを見ている(ヨガにおいて)人はほんの数人。
そして、その数人がやはり日本へ来て「じゃあ教えようか」ってなった時に、やはりかつて私が行き詰まった所で行き詰まっている。
ほら、みんな問題なんてみたくないんだよ。
例えヨガ教室が宗教と離れていたって、自己からは離れられないのに、
日本でヨガをしようとしたら、自己と大きく離れている方が(なおかつそのくせに精神性を語る)方が、人気になるんだよ。
本物なんて知りたくないし、
自分の嫌なところとなんて、向き合いたくない。
ただ、私たちがマイノリティだったのだ。
好き好んで「自分の嫌なところと真摯に向き合いたい」から、本物のヨガへの道に踏み出したんだから。(ちなみに私の同志(笑)は全員若いしみんなまだ入門生って感じ。私よりは先を歩いているけど)
だから、ポツリと仲間が漏らす言葉がよくわかる。
「なんで、自分を改善したくないんだろうね?
そんなんでヨガ続けてて、楽しいのかな?」
その疑問、落胆、よくわかるよ。
多分楽しいと思ってるんだよ。
「自分はヨガ(=いいこと)やってる!」って思うこと自体が、欲しいんだよ。
教室に通ってること、有名な先生のとこに行くこと、インドから帰ってきた先生に習ってること、が「大事」なんだよ、きっと。
「それってエゴじゃない?エゴを満たしていくこととヨガは両立しないよね?」
だから、ヨガじゃないんでしょ、ヨガ教室なんて。
なんてやり取りをした。
ヨガの先生なの?って聞かれること自体が憂鬱。
十中八九、話が噛み合わない。
簡単にでも説明できて、「よがって深いんだー」とでも思ってもらえたら、充分救われるけれど、パーセンテージで言ったら、そういう機会は少ないものです。
わたしは、その子達に比べて日本でもがき続けて長い(トータルで一年半くらいですがw)ので、少なからず理解し(ようとし)てくれる人たちがいるけれど、
帰ってきたばっかは大変だよね。
コースでも大学でも行ってればまだいいんだけど、真摯にやってる人ほど、そんなの持ってないもんね(笑)
ヨガの奥を知ってる人ほど、ヨガが教えづらく一般化しづらく、人も本当に縁のある人しかやってこれないんだろうけれど、変な感じ。
本当に、みんなこの子達に会いに行ったらいいと思うんだけどなぁ。
「まぁ、ヨガってそういう(表に出ない)もんだからね。」
そうだよね。別に代々秘密裏にされてきた訳じゃなくて(それだけじゃなくて)、
マジョリティーが目を向けなかっただけだよね。
現世楽しみたいからさ。
なんて会話をして、なんだかやっぱりホッとしました。
このジレンマは自分が未熟だからだけじゃなさそうで。
ただ、私たちはみんなが思うようなヨガのインストラクターじゃない。
なんて言ったらいいんだろうね?
もうインドですら逆輸入されたヨガの概念が浸透しているのだし、
誤解されるくらいなら、なんか名前つけたい!!!
と思った。肩書き。
それはとても効果的だろうけれど、するべきことはもっと「本当の」勉強して、実践して成長して、「本物」になることだろうから、
肩書きには頼らない。
名前はヨギには要らない。
I am not a teacher.
I am not someone’s child.
I am not this body.
I am not Misa.
What am “I” ?
This is the start.
コメントを残す