魂の在り方と意識・感覚

グルのそばに




私は、家族にはヨガの話をしません。

親や男兄弟には、ヨガといえば「怪しい、危ない」イメージが強かったようで、
私自身がずっと話すことを避けてきた部分があります。

しかも、おしゃれにファッションとしてポーズとってた頃ならまだしも、
今の話は部分的に聞いたら、わけわかんないと思うし(笑)

でも、たぶんもう反対も否定もしていません。

何やってるのかよく知らないけど、この子のところに生徒さんが集まってくるし、
だんだん成長してきているし、前より生きるのが楽そうだし、
自己責任で好きなこと続けるならいいんじゃない?

みたいな感じかな(笑)



で、泣きそうで疲れ果てて声も震えてやってきた親戚。
少しはわかるよ。
ずっと前の事だけど、時々ふと「今」を乱しにくるよね。
頑張って色んな意見聞いて自分を成長させてその出来事から(精神的に)遠くへ進んできたのに、引き戻されることが。

特に何も特別な事は話さなかったのだけど、
一時間くらい滞在して、元気良く帰っていった。

そのスッキリした表情に、思わず親が
「あなたと話してたら、みるみる元気になっていったね。」
と驚きつつ漏らした。

そうなんだよねー
私がやっているヨガって、本当はアサナとか呼吸とか知識とかは二の次でいいかもしれない。

一緒に過ごすことが、一番大きいんだよね。

と思った。

よく、「ヨガを学びたければ、グルと共に生活しなさい」と言われるけど、
二年前には、よくわからなかった。

でも二年まえのインドでの生活の中で後から後からより深い「学び」へと変わっていったのは、
二年前にその先生を目の前にして言葉にして会話しながらも、

見えていなかったもの、
聞こえていなかった言葉の奥の意味、

先生と一緒にいた「時間」だった。

私は先生たちの足元にも及ばないけれど、
今、皆さんと過ごしながら、
レッスンの時間よりもお話するじかんの方が濃いものがながれているなぁと思います。

私に深いものを教えてくれたインドの先生たちが
「いつかは生徒と暮らせる小さいクティール(庵)でおしえたいなぁ。」
と誰もが言っていた意味が少しずつわかってきました^ – ^

私もそんなふうにしばらくグルのそばで生活したいです。