
「私には何が出来る?」
ヴィジョンの中で、未来で私を待っている、夢を共に実現させていく仲間たちを感じた。
一人ひとり異なる個性と、才能を持っている。
その中で、私は仲間たちとの共同作業において、一体どう役に立てるのだろう?と思った。
私には何もない。
と思ったのだ。
仲間の顔や姿は見えないけれど、一人ひとりの存在が持っているそれぞれの能力が、私にはよく見えた。
エコロジーに対する知識
計画を実行する行動力
価値を見出しお金に換える力
計画を明確にする知性
仲間を集める求心力
言葉に変えて発信する力・・・などなど。
私が自分自身に見たのは、
スピリチュアル能力
だった。
そして、その事がとても嫌だった。
スピリチュアル能力は欠点だった
25年以上だ。
子供の頃から意識とは何か、この意識が認識するこの世界はどう存在しているのか、神の本質を垣間見、偽りだらけの現実世界と真実とのギャップに苦しみながら、否応なくスピリチュアルな事に取り組み続けてきた人生だった。
エネルギーについて学ぶ事。
スピリチュアルな視点からの人生や体験の意味、価値を知る事。
それは、繊細すぎる私が、この低い周波数の世界で生き延びる為にどうしても必要な事だった。
生きづらさの原因であったこのスピリチュアル能力が、
ヴィジョンを共に生きる仲間たちにとって価値のあるものだと、私は思えていなかったのだ。
そこに価値を見出していない自分自身にも多少の驚きがあった。
頭では、わかっているつもりだった。
この能力が、私を私たらしめている特徴であり、特技でもあり、人の為に使えるものだと。
でも、今でもそう思えていないのだ。
私が、私の能力に、価値を認めていないのだ。
サイババが、私の第3の目に手をかざしながら入れてくれているエネルギーを、「受け取る」と意図して体の力をさらに抜いた。
そのままエネルギーに癒されるがままに任せていた。
教祖、魔女狩り、十字軍、という言葉が子供の頃から恐怖だった。
魂は、過去を覚えている。
スピリチュアルな能力は、生きる事を難しくさせるものだった。
言葉は民衆に届かず、理解されず、聖なる智慧の言葉は実行されてこなかった。
ただ、瞑想中に感じていたのは、能力によって迫害された事への恐怖よりも、
「自らの力が至らず、皆を救えなかった。導けなかった。」
という事に対する恐怖だった。
この5年間、ずっとその気持ちと闘っていた。
この能力は、私が私の生活をこなしていく為に、私が私の目標を達成させるためだけに使われればいい。
そう言い聞かせていたのに、深い瞑想に入った時、偉大なる大師たちの像の前で座っている時などに感じるヴィジョンが、私を悩ませた。
なぜ、神は私に、それほど美しいものをみせるのか。
なぜ神は、私にそれを伝えるビジョンを見せるのか。
この光を、いのちの喜びを、皆と分かち合えたらどれほど幸せだろうか。
そう喜びに満たされては、ヴィジョンとあまりにかけ離れた目の前の現実に戸惑った。
そんな記憶が、一瞬にして頭の中を駆け巡った。
ヴィジョンのその先
未来の仲間たちをもう一度見渡した。
出会う事を約束してきた仲間たち。
いつも羨ましかった。
いつも他人の能力に惹かれては、私もそう出来るようになりたいと憧れた。
だって、彼らだって全員が、スピリチュアルな存在なのに、一体私のスピリチュアル能力にどんな価値があるのか全くわからない。
でも、もしかしたら、私だけじゃなく、誰もがそうなのかもしれない。
自分の持っている知識や経験が、「全体」の中では役に立つ。
ひとりで世界を作る訳じゃないから、ひとりで全部できなくていい。
自分が持っていないものは、他の誰かが持っている。
だから、自分は、自分の中にあるものを、自分が経験してきた事を、大切に、誇りにすればいい。
私だって、
何もできない訳じゃない。
何も知らない訳じゃない。
「みんな」で創造していくこの世界だから、
私は、私にできることをすればいい。
誰もがスピリチュアルな能力を持っている事を、思い出させてあげればいい。
みんながそれを思い出した時、私の役目は終わる訳じゃない。
私がずっと見たかった世界を、その時やっと生き始めることができるんだ。

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