インドで年越し
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
何気にインドでの年越しは、7回目ですね。
基本、働いている時には普通に12月31日まで働き1月1日のみ休み。
そうではない時はクリスマス〜年明けまでアシュラムに籠っていましたね。
今年は、1月1日が土曜日なので普段と同じ普通の週末。
色々日本人の皆さんがお誘いしてくれるのだけど(1人だと寂しいだろうとw)
基本飲まないし、どんどんお酒の席が苦手になっていくので
年末年始はゆっくり1人の時間にしたいなぁと思い、家でリトリートをすることにしました。
久しぶりにゆっくりと時間をとって、
アサナ、プラーナヤーマ、瞑想をして、自分とゆっくり向き合うことができました。
昨年後半は、気の進まない付き合いにも顔を出したりと、ちょっと自分のペースを尊重せず外に意識が向きすぎて疲れてしまったので、
今年は早寝早起きをモットーに、自分優先で過ごしたいと思います。
クリスマスは旧フランス領へ
クリスマスが土曜日だったので、土日にポンディチェリーへ行ってきました。
カフェ情報は別ブログへ回すとして、その際、シュリ・オーロビンドのアシュラムへ行ってきました。
シュリ・オーロビンドの肉体が眠る場所は、オーロビンド師を思いながら過ごす信者のための非常に静かな空間となっています。

このゲートから先は携帯・カメラ禁止、会話禁止。
なので、興味本位で観光で来た人達は入ってきてもすぐに出ていく。笑
それが良いところ。
信者は思い思いにお墓(?)の周囲に座り、ぼーっとしたり瞑想をしています。
私は2年前にシュリ・オーロビンドに導かれて初めてここに来た日から、
自己の崩壊を経験し、それまで「本当の私」だと思っていたものさえ、「個我」であり、真我とは別物だったということを時間をかけて体得してきました。
ちょっと言葉では何も表せないね。
全く違うのに、ありきたりになってしまう。
ずっと、何度も生まれ変わりながら求めてきたものを、やっと掴んだのです。
やっとわかった。
そんな、今生の喜びだけでは語れないような、大きな体験を与えてくれたのが、
その体験のスイッチを入れてくれたのが、このオーロビンドアシュラム。
私があまりに普通だから、
普通に生きてて、普通に悩んで、普通にイラついて、普通に生きているから、
他人にはわからないでしょう。
でもそんなことはどうでもいい。
私にとっては、間違いなくこの2年間が吉兆の時であり、宇宙の最大のギフトを受け取ってきた時間だった。
・・・でも、みさとして、個人として、
正直オーロビンドアシュラムへ入ることに恐れがあった。
「私」が誰なのかを知ることはできたが、
同時に、みさは全て消えてしまった。
みさが持っていた目標。
みさが持っていた楽しみ。
みさが持っていた願い。
エゴは、私の自我は、やはりみさとして生きる術をいつも探している。
だから、ここへ訪問して、またみさが消えていくことが、またいろんなことが白紙になっていくことが、怖かったんだと思う。
入る時には、そんな自覚はなかった。
ただ緊張していた。
聖者の力
聖者と呼ばれる人たちの持つ力は本当にすごいと思う。
「私をさらに先へと導いてください」
とお願いしてから、スペースを見つけて座る。
座っていると、勝手に瞑想状態に入っていく。
(すでに瞑想は行うものではなく、勝手に始まるものになっています)
ニームカロリババや他のマスター達全ての導きとブレッシングを感じていた。
彼らは同じなのだ。
ヒマラヤへ導かれようと、ここへ導かれようと。
私はただの直感で深く考えもせずにチェンナイに引っ越してきてしまったけれど、
「今はここにいるべきだからここにいるんだ」
と確信したし、
ここにいられるうちに行うべき事、体験すべき事をするために、無駄な時間は過ごしたくないと思った。(不要な付き合いとか、嫌なわけじゃないけど優先順位の1位じゃない事などに流されずにちゃんと断る、とか)
マザーMirra。
オーロヴィルを創設したマザーミラ。シュリ・オーロビンドの弟子。
そのマザーのエネルギーが、私のハートで響いていた。
何度も何度も、マザーのエネルギーがハートの奥から発せられていた。
私の今すべきことは、マザーのように在ること。
(みさの反応「無理。」)
ニームカロリババのところで迷走した時もそうだったな。
マザーのエネルギーを瞑想中だけじゃなくて、普段過ごしている時も発せられるようになることが
自己崩壊以降の私の課題なんだろうな。
瞑想中はただただ愛に満たされていて、
肉体のことも時間も忘れていた。
オーロビンドとマザーミラから、ある音を授かり、その音が私の中心から鳴り響いていた。
しばらくはこの音とともに瞑想をして導かれていく必要がある。
波動の世界に浸っていた。
ふと我にかえり、ゆっくりと瞑想から抜けて目を開けると、
腕に鳥のフンが落ちてた。笑
全然気づかなかった。
まだ1週間ちょっとなので、
この時のエネルギーを簡単に思い出すことができている。
チェンナイに来てからの数ヶ月、生活のセットアップや全く別世界の新しい文化の中で
目の前の生活に慣れることに集中していて、
「今はヨガに集中する時じゃないな」と感じていた。
でも、みさと真我はうまく共存していて、
みさが色々大変な経験をすることを楽しんでいた。
でも、なんとなく、その「みさ」優位の生活フェーズが終わって、
やっと自分の道に戻れるタイミングが来たんだな、という感じがした。
うまく言えないけれど。
言葉にすると誤解しか生まない気がする。
でも、後から自分で振り返れるように言葉にしておく。

通常インドでは食べられないような本格的なクロワッサンがとても安い。さすがフランスw
シュリ・オーロビンドの言葉
” 我々が実践しているヨガは、私たち自身のためだけではない。神のためだ。
その目的は、この世界に神の意思が働くようにするためであり、霊的変容をもたらすためであり、神の性質、神のいのちを、精神、生気、肉体、そして人間としての人生に降ろすことである。
ヨガにおいて解脱は必要な条件であるが、ヨガの目的は個人の解脱ではなく、人間であることからの解放と変容なのだ。
それは個人の至福・喜び(アーナンダ)ではなく、神の至福・喜びを、キリストのいう神の王国を、我々のサティユガを、この地上に降ろしてくることなのだ。”
ー シュリ・オーロビンド
ヨガが正しく理解されますように。
世間で広まっているヨガという言葉にとらわれているせいで、先へ進めずにいる多くの魂に気づきが広がりますように。
そのための役に、少しでもこのブログが役に立ちますように。
愛を込めて。
“The yoga we practice is not for ourselves alone, but for the Divine; its aim is to work out the will of the Divine in the world, to effect a spiritual transformation and to bring down a divine nature and a divine life into the mental, vital and physical nature and life of humanity. Its object is not personal Mukti, although Mukti is a necessary condition of the yoga, but the liberation and transformation of the human being. It is not personal Ananda, but the bringing down of the divine Ananda – Christ’s kingdom of heaven, our Satyayuga – upon the earth.”