こんにちは!
仕事でどよーーーーんと疲れ果てる日もあるけれど、
とにかく、「気候が良い!!」ので、それだけでここに住めていることに幸福感を覚えています。
私が一番欲しかったのが、この気候なんだよね。
それがなぜかはわからない。
実際にそれが気候のせいなのかどうかもわからない。
以前、とにかく「リシケシに居なきゃ」と、リシケシ以外にいる自分に違和感しか感じなかった感覚と同じ。
今は別の場所ではなく、とにかくここにいることが、私の人生の「ピタッ」とはまるポイントなんだろうな、と。
その確信だけがある。
ここで何か未来につながる出会いがあるとも思わない。(え?思わないの??ww)
それもあるかもしれないけれど、何かそれ以上に、ただここで体験する日常の些細な感情の揺れや気づき、一期一会の出会いが私の発酵・成熟に地道な影響を与え続けてくれていることが、重要なのかなと感じています。
言葉にすれば似たような体験かもしれない。
似たようなカフェで似たような心地良さの中で、似たようなイラつきを覚え、似たような日を送るかもしれない。
でも、日々ほんの少しのズレで出会うことも体験することもきっと全然違って、それぞれの体験は瞬間瞬間、一期一会でしかないんだよね、と。
先日、
と呟いたら、結構いいねやリツイートをいただきまして(私にとっては)
おお、意外と通じるものなんだな!と感動しました。
私たちは通常、
問題を解決させようとか、問題自体を無くそうと努力したり、
悩むことをやめようとしたり、迷わないようにしなきゃと思いがちなんだけど、
この思い込み自体がそもそもズレているというか。
私が悟っても、天気は晴れの日もあれば曇ることも、嵐が起こることもあって、
そのために私も濡れたり、時には暴風に巻き込まれて怪我をすることもあるかもしれない。
悟るというのは、晴れだけの世界に生きるわけじゃない。
私が家の中にいる時にしか雨は降らないという条件がつくわけでもない。
確かに、調和して生きていれば、色々とタイミングが良くなっていって、
雨に降られることがほとんどなかったり、たまたま暴風に巻き込まれない場所に移動していたり、
「たまたま」で何かを回避できてしまうことがよく起こるかもしれない。
でもそれは、うまく森羅万象と調和できている証なだけであって、悟りとは関係ないんですね。
悟りとは、
「たまたま」土砂降りにハマっても、
「たまたま」土砂降りを回避できても、
それらとは全く別にある、常に平穏な意識のことです。
落ち込むことがあっても、嬉しいことがあっても、
それらとは全く別の、その体験を本当にしている「意識」のことです。
落ち込むこと、喜ぶこと。
そういう「変化」を伴うものは、全て「純粋意識」ではなく、
サーンキャ哲学で言えば、プラクリティの現れであり、
常に変化し続ける物質的なものなんですね。
「絶対者としての私」という意識は、変化することがなく、常にここにある純粋意識。
「個人としての私」は、楽しみ、悲しみ、喜び、怒る。
だから、問題がなくなることを願うのではなく、
問題がそこにあっても、「私」には何も問題ないのだということを知る。
問題がないというのは、
「損をしない」とか「その後には良いことが待っている」
ということではなく、
私個人にとって良いか悪いかは関係なく、
「私」とはそもそも、私個人のことではなく、「本当の私」のことなのだということをまず認識する。
私は誰か?
私とは誰なのか?
結局、それを捉えなければ、いくら話しても説明しても、意味がない。
ムージがとてもシンプルで大切な事を話してくれている
(そしてそれを日本語にしました)
ので、聞いてくださいね。
朝、まだ意識がアイデンティティに侵食され切っていない時に、
本当の私が誰なのか、に意識をむける。
その上で、本当の私をかくにんした上で、アイデンティティという服を着て、世界にドアを開けるのです。
私の話し方が嫌いという人にはお勧めしませんが、笑
個人的にとても良い内容だと思っているので、
意識が外に引っ張られがちだな〜〜と思う人は特に、実践してみてくださいね。
悩みや迷いがある事と、悩みや迷いがあることが問題だと思っているのは全く別の問題。
多分みんなそれがわかってないから話が噛み合わないんだよ?