魂の在り方と意識・感覚

ただひたすらに徒然と

そのモヤモヤをそのまま記せ

昨日、久しぶりにインディーと話した。
インド系イギリス人である彼とはインドのアシュラムで出会った。
二人ともバイオリズムが似ているようで、立場や状況は異なれど浮き沈みや感覚、出会う前から体験を通して似たような感覚を学ばされてきた事をしる。

ちなみに、私が魂的に近いと思う人たちは大抵そうだ。
同じ時期に仕事をやめ、パートナーと出会い、離れ、旅をし、金銭的トラブルに直面したり・・・。

私たちは今も定期的に連絡をとるが、おそらく、私のソウルファミリーの中でも彼が一番、私と成長過程の進度が似ている。

最近心の中で思っていた事を言葉にする事でよりクリアになる。
他の人の進む具合やルートが、私には合わないので、自分が間違っているのではないか、とか、どうしたらいいんだろうと不安になることも多いけれど、私が感じている「正しい」という感覚を信じればいいのだと思わせてくれる。

私は確かに、インドでヨガを学び、最初はasanaを究める事と知識を片っ端から貪っていたけれど、途中から、私はなぜヨガをしているのかという問いに向き合わされた。

ヨガの先生になる為や、知識人になる為にヨガを求めていたのではない。
あの時に出会った不思議なババの言葉を借りれば、

Do you want to know YOGA ?

or

Do you want to know yourself ?

ヨガを知りたいのか?それとも、君自身を知りたいのか?

私は自分には無謀だと思える夢を叶えられる人間になりたいと思ってわざわざインドまできてヨガを求めた。
大人になっていく過程でいろんな可能性を閉じていく同級生達を横目に、
「なぜ生きているのか?なんのために生まれてきたのか?人生で本当に大切なものは何なのか?」
をいつまでも青臭く問い続ける自分にとって、その問いを失う事は生きていく意味を失うようなものだった。
だから、その問いとともにこの混沌とした純粋ではない世界で尚、純粋に生きていける強さを身に付けたくてヨガを求めた。

ヨガを教えて欲しい、クラスを開いて欲しい、ワークショップを開催して欲しいと今でも言ってもらえる事をとても有り難く思うと同時に、いつも心に違和感が生じる。

私は、私が本当に教えたいものを、どうしたら伝える事ができるのかまだわかっていない。

皆に集まってもらって、1時間、もしくは1日集中して何かを伝えて、そこにどんな意味があるのだろう?と思ってしまう。

去年の東京でのチャクラのワークショップは、本当に楽しかった。
一人ひとりが、その人自身のいのちと向き合う事。それを私なりに表現できたと思う。

それと同時に、正直、名古屋でのワークショップでは、私自身が6年前のスタイルから抜け出す事ができなかった、と感じてしまった。
久しぶりに会った方々の姿勢、エネルギーの状態を見て、6年前から変わらない意識の囚われている部分を誤魔化すように過ごしてきたのであろう部分が見えてしまい、その恐れを越えるために肉体方面からどうアプローチできるだろうか?と終始考えていた。
1日では足りない。
そう、痛感した。

誤解のないように言っておくと、誰だってその人自身の中に、向き合う事を避けてしまう部分を持っている。
ヨガは、そんな向き合いたくない、できれば見ないまま、気付かないまま過ごしたいと思うような部分も含めた自分自身をありのままに受け入れ気付く事で変容していく事をその人に求める。
どこまで自分自身と向き合うか。
それはその人自身が決めること。
魂の旅路は長い。永遠に続く。

今生でどこまで成長するか、私たちはある程度決めて生まれてきている。

決めた目標を諦めることもできるし、低い目標を設定していたけれどそれより高い目標に設定し直す事だってできる。
全ては、自分で決められるのだ。

真実の世界は、残酷なまでにシンプルに、ただカルマの法則・・・原因と結果の法則が働いている。

マイナス10kg痩せようと決めていても、お菓子をいっぱい食べたらその分の脂肪がつくように。

嫌な事があったときとか、理不尽だと思う境遇に生まれた時、不運にも人生が閉じられてしまうような時、そういう人は霊性が高いからだと言われれば、前を向く力になる。
そして、実際霊性の高い人や、過去のカルマを一気に解消し大きく成長しようとする意欲的な魂達が、試練のような出来事に見舞われることは往々にしてある。

ただ、更に成長していくためには、嫌な事や大変な目に合うそのことすら、
「過去のカルマの精算だ」
と冷静に受け入れる強さをもつ事も必要だ。

それを受け入れられない他人に強要する必要はない。

他人は優しいから、「あなたが祝福されているから、あなたの霊性が高いから、そんな体験をしたんだよね」と声をかけてくれるだろう。
それはそれとして有り難く受け取り、なおかつ、

ただ、自分自身が、過去に行ってしまった悪業のブーメランを受け取っているのかもしれない、と粛々と受け入れるのだ。

事実を受け入れ、そして、過去を悔やむのではなく、
今この瞬間、過去の過ちを受け入れた事自体を讃える。
今この瞬間、過去を受け入れるだけの器を持った自分自身を認める。
今この瞬間、確かに成長した自分をしる。

そうする事で、「私」という魂は真実を体験し、変容していく。

そういう成長を、延々と繰り返していくのだ。

さて、それを、どう伝えられるだろう?



先日オンラインでヨガレッスンを受けてみた。
楽しかった。
私は、一人でするアサナ以上に、誰かとその時間を共有する事が好きだ。
自分がインストラクトするのも、受けるのもどちらも大好きだと、改めて思った。

瞑想を誘導するのも、asanaを教えるのも、レッスンの度に好きだと思う。

それでも、腑に落ちていない。

私には伝えたい事が確かにあって、
でも今でもそれをどう形にして伝えていけばいいのかを模索している。

6年前に決めたのだ。
本当に大切な事を教えられる、本物のヨガの教師になる、と。

そして、それは当時行っていたようなカウンセリングやワークショップという形ではない、と。

今、クラスのオファーをいただいても尚、もやもやするのは、
まだ新しい形ができていないからだ。

他人は、とりあえずやってみればいいとか、やりながら形にしていけばいいなどとアドバイスするし、私自身も他の事であればそうだろうと思う。
けれど、こと私が求めている真実に関しては、今、中途半端に形にする事によって、ある程度の波動で固定されてしまうとそのさきの精妙さが追求できなくなるから、やらないのが正解だと、私が思っている。

固定観念にとらわれることと、自分の直感を信じることは違う。

常識と異なっていても、私が知っている、私の感覚を信じること。

自分と、真実に対する信念が問われる。