魂の在り方と意識・感覚

バドリナートへの旅 8

2019年6月に行ったバドリナートへの旅の記録。
バドリナートへの旅7 の続きです。

バドリナートへの旅 7  神に会うために必死過ぎてインド人のじいちゃまばあちゃま方に可愛がられる

エピソード0

3日目の朝、ようやくアビシェークに参加できた。

朝3:30に宿を出て歩いてお寺へ。

15分くらいで着いたけれど、出遅れたっぽい。
列に並んで中に入ったけれど最後の方になってしまい、ご本尊・祭壇が柱で見えない入口の扉に近いあたりになってしまった。
一度扉が閉められた後も遅れてポツポツ人が入ってくるので、徐々に密度が増していき、遂に私は座る場所さえ追いやられ(昔から押し合いに弱くて、ネットで遮られてない球技は、シュート練習とかは得意だけど試合が苦手なのです。バスケとか)、
柱の横に立ち尽くして悲しんでいたら、sewa 係の人たちがアビシェーク準備に勤しむ一角の棚の上に座って良いよと少しスペースを作ってもらい、誰にも押されない棚の上に座ることが出来た。
(他の人たちは床)人との押し合いも密着も大の苦手なので、これでゆっくり気兼ねなく自分自身と向き合う事が出来る。

おしくらまんじゅうに負けてラッキー♪
どのみちご本尊はほとんど見えない位置だったので、モニターを見たり祭壇の別の神様を見たりしながら過ごしていた。

お寺に詣でる時は、必ず全身シャワーを浴びて身体を清めてから、と厳しく教わっていたのだけれど、寒いし今回それほど本格的にやってないし朝早いし、などと言い訳をして、
寝る前にシャワー浴びて、朝は足を洗うだけでいいかなーって思って、足だけ洗って参加したの。
シャワーしてから4時間しか経ってないし、みたいな?

でもね、夜明け前の静寂の時間で、なおかつ御神体が洗って清められている訳だから、場のエネルギーがとてもピュアでフレッシュなんだよね。
(実際の音はどんちゃん騒ぎwでうるさいですよ。人も多いし)

だからその対比で、私自身から発せられる波動が、古く澱んでいるのを感じてしまった。シャワーを浴びる事がどれだけ大事なのか、身を以て学んだ。


また、今回の旅には家からカーリー女神の像と、シルディサイババのバドゥカ(足型)を持って来ていた。

カーリー女神には初日に祝福をいただいていたので、この日のアビシェーク時にはサイババのバドゥカを持ってきた。
 *バドゥカ…聖者などの足跡をかたどったもの
ここはBadri Narayanビシュヌの化身が祀られている場所。
そもそも初日にシバ神の妻であるカーリー女神を持って来た時も「(系統が)違う、ダメだ」と(パンジットに)受け入れてもらえないかもしれないと思っていたのに、カーリー女神と確認した上で御神体にまでタッチしてくれたので、凄く驚いたの。

この像は元々この場所とエネルギーの繋がりがあったので、パンジットがエネルギーを感じてくれれば受け入れてくれるはず、と思っていた。
(現に受け入れられた)

そして、サイババのバドゥカを持っていっても、見た目には誰の足型かわからないから問題ないかなー、もしくはエネルギーが(この場所とは)違うって思われるかな?
とドキドキしながら、最後に祭壇の前に行った時に差し出したら、見向きもされなかった!!!

やっぱり、ここの人たちエネルギーがわかるんだぁ〜!!と妙に興奮して (祭壇に触らせて貰えなかったのに) ニヤニヤしながら参拝終了(笑)


先に外に出て待っていた友達の方へ歩いていくと、友達の斜めうしろ辺りに座っていたサドゥ二(女修行者)が、私を手招きしてるので、何だろうと思いながら近付いて近くに座ると、

「これ、シャンカラチャリアから」

と言って、おもむろにルドラクシャを手渡された!!!なんで!なんでシャンカラチャリアなの!?


そりゃあ、シャンカラチャリアが導いてくれているからだよね。知っています(笑)

バドリナート寺院は、シャンカラチャリアも縁のあるお寺だし、シャンカラチャリアも祀られている。
でも、アドヴァイタヴェーダンタ(不二一元論)を説いたアディシャンカラチャリアは、仏教・ジャイナ教が人気だったインドにヒンドゥー教を再興させ(ヴェーダの権威を取り戻し)、現代まで続くヒンドゥー教の様々な形式やルールを作った人なので、
多くのヒンドゥー教寺院で見る事が出来る聖者、つまり生きていた生身の人間である。

神々を差し置いて「シャンカラチャリアから」と祝福の聖なる種を渡された感激と言ったら。

女修行者 「シャンカラチャリアのアシュラムがあるから行きなさい」
私   「もう行きましたよ。◯◯◯◯アシュラム」
女修行者 「なんと!!宜しい。   この後ジョシマートは行く?ジョシマートのシャンカラチャリアのアシュラムにはトータカチャリアの、、、」
私   「もう行きましたよ。トータカチャリアの洞窟で瞑想しました。」
女修行者 「そこに今いるマハラジが、、、」
私   「◯◯◯◯ マハラジですね!!数日前に会いました!  それで、バドリナートのシャンカラチャリアアシュラムを教えてもらって、このシバリンガムにお参りしてきたの」
女修行者 「まぁー〜そうなの!?   私の名前は◯◯。   じゃあ、またジョシマートに行ったらバドリナートにこのルドラクシャを◯◯から貰ったと宜しく伝えて頂戴!」


その後、私の持ってるサイババのバドゥカを触りたいと言われ、誰かに触られるのは(特に修行者に触られるのは)嫌なのだけれど、これもご縁だと思って差し出した。

ちゃんと「シルディのサイババのですよ」と伝えて。

すると、すぐ近くにいたインド人家族がずっと私たちの話を聞いていて、遠慮がちに娘さんにバドゥカを触らせてあげて欲しいと言ってきた。

まだほんのすこーし、「みんなに触られるの嫌だな」と思いながらも、でも神や聖者からいただいた祝福は独り占めするものではなく、みんなにシェアしていくものだと思い、娘さんに差し出した後、謙虚なそのインド人家族に「良かったら皆さんもどうぞ」と言ってお父さん達にも触って貰った。

そして、すぐ目の前にいた友達にお待たせって声をかけてその場を去った。

去りながら今の出来事を話したら、真後ろというか真横というか、斜め後ろでずっと会話をしていたのに、全く聞いていなかったし、その修行者がいた事も全然記憶にないんだって。私はてっきり、気付いているし聞いてるけど、関わりたくなくて無視してるのかな〜って思ってた。そのくらい、気付かない方が不自然に思える距離だったのに。

でも、そういうのがこの世界だよね。
同じ場所にいて、同じものが見えているとつい思ってしまうけれど、実は意識がどこに向いているかで見えるものも体験するものも全く変わってしまう。

見たいものしか見えないし、聞きたい事しか聞けないし、体験したい事しか体験できない。

今自分に見えているもの、認識できているものがいかに儚いか、いかに限定的か。

たとえ今の私に見える現実には、先が見えなくても、閉塞感を感じるものであっても、
「そうじゃない今」という現実が「ここ」に同時に存在している無限の可能性を、見ようとする意識を持たないといけないなと思った。

今見えているものが全てだと思わず、常に視野を広げる意識を持つ事。

今の私には、自然農と自然環境を守る事と人の心、体、魂の健康と未来の地球を守る事をどういう活動に落とし込めばいいのか全く見えない。

けれど、見えていないだけで道はあるのかもしれないから、決めつけずに靄の向こうを見ようとし続けること。その姿勢が大切なのだと思った。

バドリナートへの旅 9

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