魂の在り方と意識・感覚

繊細すぎる方が普通

繊細な人が生きづらい世の中

他人の死についてとやかくいうなんておこがましいし、出来れば話題にせずそっとしておきたいのですが、なんとなく、似たようなエンパスやHSPの方々も同じような苦しさに耐えられなくなる時が多々あるのではないかなと思い、無粋だと自覚しながら書いています。

目を見ただけで、多分この方はエンパスだろうな、と思う事があります。
目がとても澄んでいるのですが、エンパスである事を理解し対処しきれていない子達に共通するものがあります。
全てを受け止めてしまう純粋すぎる目が、そのキャパシティを超えてしまっていて、でも誤魔化す方法も防御する方法も知らない。。。という事を物語っているようで。
エンパス/HSPである私には、色んな情報がダイレクトに伝わってしまう、そのごまかしのない目を見るのはとても心の痛む事なので、そんな繊細すぎる人たちに”大丈夫だよ”と伝えていきたいと思っています。

以前、HSP/エンパスについての動画でも説明したのですが

エンパスには魂の周りについているチリや埃が少なく、魂が素の状態に近い人が多いです。
普通は、魂の周りにカルマと呼ばれるチリや埃がたくさんまとわりついていて、魂の中心からこの世界をみようにもメガネが曇っていて正しく認識できないけれど、そのカルマが少ないと、世界がクリアに見えるだけでなく、外からの刺激もダイレクトに内側に届いてしまうんですね。

だから、純粋な人(ここでは魂のクリアな人)ほど、外からの全ての刺激が「自身」に届き感じやすくなってしまうんです。

「鈍感な人」が大多数であり、「鈍感な人たち」が生きていきやすい世の中です。

最近はHSP(Highly Sensitive person :とても繊細な人たち)が認知されてきて、繊細であることが認められつつありますが、やはり「普通の鈍感な人たち」には言ってもわかってもらえない事が多いと思います。
理解しようとし、繊細な在り方を受け入れ認めてくれる優しい人は「普通の人たち」にもたくさんいます。私の周囲もそうです。
 (エンパス/HSPがいう「普通の鈍感な人たち」とは、世間一般でいう「普通に感情豊かな人たち」のことも含みます。)

でも、HSPが感じる事と、それを体験していない「普通の鈍感な人」が頭で理解してくれる事にはギャップがどうしても生じてしまうし、

考えすぎ
思い過ごし
被害妄想
誰も他人の事なんて気にしてない

なんて言葉を、親身に寄り添ってくれる人からさえ言われてしまう事があるんですよね。
「誰かに相談してくれていれば」とか「もっと話してくれたら良かったのに」と、どうしようもなくなってから言われる事があるけれど、

わかりたくなくてもわかってしまう
人の本音が伝わってきてしまう
裏側が見えてしまう
色々な人の思惑が流れ込んできてしまう

そんな辛さは、話したところで理解されない事すら、私達HSP/エンパスにはわかっているからこそ、話せない。
親身に聞いてくれて、自分はHSPじゃないのに「そうなんだね」って話した内容を受け止めてくれて、理解を示してくれる人が身近にいても、
その人が心から私を受け止めてくれている事、理解しようと務めてくれていることをきちんと感じながらも、HSPの感覚と同じようにはその人がHSPを理解していない事が感覚として明確にわかってしまう事で生じる、言いようのない絶望感。

有り難いし、その優しさに報いたい。

でも、その「理解されていない」という事実が、否応無く心に響くのです。

そんな感じで孤独感を深めてしまう事って、ないですか?

魂の綺麗な敏感な人が生きやすい世界を創りたい

私は本気で、「魂の綺麗な敏感な人が生きやすい世界を創りたい」「正直者がバカを見ない世の中を創りたい」と思っています。
その為にまず私にできることは、「ピュア」で繊細で居続けることだと思っています。

本当は今でも、たまに死にたくなります。

今でも、誰かが自ら命を絶ったと聞くと、私自身がまだ生と死の境界線を超えていない事、その境界線は「うっかり」超えられる程脆いものである事が鮮明に感じられて落ち着きません。
その境界線をうっかりなどという言葉で表現する事は不謹慎だと思われるかもしれません。
でもそれは死を軽く考えているからとかではなくて、その境界線のこちら側に留まり続ける事がとても大変で、運よくギリギリ留まれていただけで、いつどこでふとあちら側にいってしまっていたかわからないと思うからです。

今でも死にたくなる事があると書くと、一般的には心配されるかと思いますが、私はこの死のギリギリのラインまで落ち込む事が出来るのは、強さだという事を知っています。
(心配されたり、同情される必要はありません。私はむしろ、そこまで深く感じられない”心”に同情したいくらいですから。笑)

感情を抑え込んでいる人は、喜びも悲しみも少ししか感じません。鈍感な人は二次元的な喜びしか感じません。
喜びと悲しみの間にグラデーションはあっても喜びと悲しみという一本のものさしの上で移動するだけです。
もう少し豊かな感性だと、三次元的に感情が広がります。喜びも悲しみも強さだけではなく奥行きを持ち始めます。
そして、もっと繊細になると奥行き以上に流れを感じ、感覚が四次元になります。ここまでは普通の物理次元の意識で感覚を育てる事ができます。
エンパスは、最初から五次元以上の感覚の奥行きを持っています。(HSPは3,4次元〜、鈍感さんは二次元、世間の普通さんは三次元。あくまで私の感覚です。)

生きている事の喜び、美しさ、尊さが深ければ深いほど、存在している事すら難しいほどの絶望、諦め、無価値感が深くなります。

いい加減、絶望とか悲嘆とか不安とか、そういう感情を「負」だと認識するのやめませんか?

日々色々な事を経験して、誰かの言動や自分自身の言動に動揺しますよね?
その動揺を認めず蓋をすることは、魂に生じている繊細は波動の振動を無視している事になります。

今自分にどんな波が生じているのか?

それを感じる事が、自分と向き合う事であり、ヨガであり、意識の進化であり輪廻転成を繰り返しながら肉体をもち生きている意味に取り組む事です。

あなたの心が揺れるのは、あなたのキャパシティが成長しつつあるからです。

これにはエンパスもHSPも「普通の人」も同じです。誰だって心が揺れる時がある。むしろ、心は揺らいでいるのが自然な状態なのです。
それを、感じる準備が整っていない時、余裕がない時には私達は感情を殺します。
でも日々成長し、進化し、経験値が増え、その感情や感覚を体験できる状態になった時に、あなたは揺らぐのです。

どうか、自分の中にどんな感覚が湧いてきても、どんな感情が溢れてきても、それをただ、

今、私は成長しつつあるんだ

と認めてください。きっと、その揺らぎとともにあなたの内側が育まれていくのがわかると思います。
誰かや、自分の過去と比べて、今自分がどの程度成長したのか、どの程度進化しているのか、どのレベルに到達したのかなどどジャッジする意識は不要です。
ただ、今の状態をありのまま認め、自分が自分に寄り添う。

そんな在り方が一般的になった社会では、落ち込んだり悩んだりして心が塞ぎ込む事が、どれほど喜ばしい事か、どれほど素晴らしいことか、どれほど光に祝福された状態かと羨ましがられることでしょう。

私は、この次元上昇が進んだ先の社会では、これは当たり前の感覚になっていくと思います。
なぜなら、波動の上がった状態では、良い悪いは波動が高いかどうかでジャッジされるからです。
(波動が上がっても、いい悪いはありますよ。ワンネスから比べたらずっとずっと波動低いですから)

特にエンパス/HSPさんは、しっかりとこの感覚を持ってください。
感じることのできる能力は、弱さではなく強さです。
いくら敏感とはいえあなたにも、感じ切る事ができなくて蓋をしてきた感情と、時間が経ってからようやく「あの時こんな風に感じていたんだな」と向き合えた経験があると思います。
程度の差はあっても、感情に蓋をするのは誰にだってある事です。だからこそ、今感じているものは「今それを感じられるだけの器が、今の自分にあるのだ」という証です。

感じ切るというのは、ただ感じ続けるだけです。
乗り越えようとも、取り除こうともしないでください。

ただ在る



でも、「ただ在る」ができない人が多いから難しいって言われるんだよね。
それをゆっくり、焦らず、レッスンで学んでいってください。
基本はとても地味で、シンプルです。でもそれが出来ない人が多すぎる。
基本が腑に落ちればもう何もいらないのにね。

ヨガを伝えるのは難しいなぁ。