学生の頃、女性向けの「毎日を楽しくポジティブに過ごすための本」をよく読んでいた。
物事の捉え方は、自分次第で変えられるんだよ、と言われたって、
イヤだ、嫌いだと思っていることを、肯定的に捉えるのは難しく思っていた。
だから、いくつもいくつも、ポジティブな考え方になれる本、
ポジティブに過ごせる本を読んでいた。
「とびっきりのお気に入りの傘を買っておく。
そうすれば、雨が降っても、お気に入りの傘がさせて、気分はハッピー♪」
傘はすぐに手に入るから、気に入る傘を探しにいって、
自分好みのものをみつけたので、
「さぁ~これで、雨が降っても、ルンルン♪」
と思っていた。
実際に、雨が降るたびに、
「傘の出番~♪」
って思っていた。
・・・思うようにしていた。
おそらく、何も思わず 「お気に入りの傘」 を使ってるなんて思わずに使っていた日も多かったと思う。
・・・そもそも、「お気に入りの」傘だったのかどうかは、とても怪しい。
わたしは、 雨はテンションの下がる 悪 だから、 良い ものである可愛い傘を使って、ポジティブにしなきゃ! って、自分に言い聞かせていたんだと思う。
同じ頃、ブログにお友達がいた。
名前を 「美雨」 ちゃんといった。
遠く離れたところに住んでる、大学生の女の子。
私は、その子はとても繊細で可愛らしい子だろうと想像していた。
とても、優しくて、大好きだった。
ある時、「どうして、(ブログの)名前を美雨にしたの?」と聞いたら、
こういう返事がきた。
「雨は、美しいと思うのです。
雨が降るのを見るのが大好きです。
だから、雨が降ったら、私を思い出してね。」
そのメッセージを見て、ハッとした。
あ、私も・・・、雨・・・嫌いじゃないよ!!!
雨が降って、部活ができない時は悲しかったり、
楽しみにしてたキャンプが中止になったり、
洗濯物が乾かなくて困ることもあるけど、
雨が降ってる中を歩く時の、音も好きだし、
水が集まって流れを作り出すのを、見ながら歩くのは退屈しないし、
降っている雨を、眺めているのも、嫌いじゃない。
小さい頃、雨が降ると砂場道具をすべて使って、
おなじマンションに住んでる友達からありったけの 「バケツ」 を拝借して、
「みず屋さんごっこ」 (わたし、みず屋さん。雨を集めた 水 を配って歩くww)してたな~。
雨が降ると、「よし!私の出番!急がなきゃ!」って雨の中へ走っていったな(笑)
次から次へと、雨の美しさ、雨の楽しさを思い出した。
傘がなくても、雨の日を満喫できるやんか。
本に、「雨の日は憂鬱だから、○○をして元気を出す」 て書いてあったからって、
雨の日 = 憂鬱
って方程式を取り入れてしまってたなんて、本末転倒じゃん(笑)
私に、雨の美しさを気づかせてくれた女の子は、今はどこで何をしているのかわからないけれど、
「あ~~ぁ、せっかくの休みなのに、雨ばっかり~~。」
って気分になった時には、
「雨は、今日も美しい」 って言葉を思い出す。
その言葉が引き出してくれる思い出の数々は、どれだけ可愛くて贅沢なモノを目の前に並べたって到底かなわないくらいに、
私の心を明るくしてくれる。
慌てて買ったビニール傘だったって、思わず クルクルっと回してみたりして、
雨を心待ちにしていた植物たちが一身に水を浴びているように、
心にゴクゴクと飲み込んでいく。
でも、雨なら雨でも、いいかなって思うよ。って付け加えてしまう。
こうやって、何かを矯正しようとして、そもそも捻れていなかったことまで曲げて余計に複雑になっていくことって、たくさんあるよね。
ポジティブでいたいと思って必死に取り組んでいたつもりなのに、
あえてネガティブを作り出して、「なかなか気分が晴れない」って悩んでいたなんて。
思い込みから解放されていくというのは、こういうことだと思う。
良かれと思って、組み立ててきた思考回路が、実は邪魔をしている張本人なんじゃないかって。
シンプルに。
ただ、ありのままに。あるがままに。
良くするとは、こういうことだ。
前に進むとは、こういうことだ。
成長するとは、こういうことだ。
と決め付けているせいで、他の可能性を全く受け取っていないことがあるんじゃないの?
なーんにもしないことが、飛躍的な成長を生んでいることだってある。
後戻りすることが、実は前進かもしれない。
そもそも、前に進まなきゃいけないって誰が言ったの?
思い込みの枠を外すとき、もうその価値観のモノサシは要らない。
今まで使っていた天秤は、もうない。
だから、今までとおなじ価値判断が、きかなくなる。
雨は、雨だ。
それに、 「楽しい」 も 「憂鬱」 もない。
でも、わたしは、この価値判断だけは好き。
雨は、「美しい。」
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