グループレッスンであっても、
意識がぐっと奥深くへと入っていきます。
途中のアサナの段階ではまだ騒ついたりどこかへ行ってしまいがちな意識も、
シャバアサナを経て、最後の瞑想の段階になると、
意識がぐっと中心に定まって、
奥へ奥へと進んで行く感じが全員からします。
私の声に従って、ぐぅーーーっと意識を更に中央へと沈めていきながら、
徐々にバラツキが出てきます。
イメージとしては、深くへ潜って行くのだけれど、
それぞれに潜れる限界が違う、ということ。
思うに、この意識の階層は、エネルギーの質、波動の高低かと。
粗い波動から、細かい粒子へと変わって行くのだけれど、
大きな粒子(カルマ、エネルギー)があると、
小さな隙間に入れなくて、それがガツン、ゴツんと跳ね返される感じ。
だから、意識を深めていく過程で、色々出てくるんですよね。感情が。
とても単純な話で、
だからこそ、清めなさいと言われる。
ヤマ・ニヤマで新しい負のカルマを作らないように、そしていいカルマを作るようにして、
アサナで身体と魂に溜め込んだ感情や記憶を浮かせて、
プラーナヤーマでそれらを排出させて、
瞑想にはいる。
だからね、いくらヨガやっているって自慢していても、
ヤマ・ニヤマができていない人は、
瞑想を深めることは出来ない。
自分の粗い波動以上の領域を知らないから、
お肉食べてても、お酒飲んでいても、
エネルギー変わらないですよ、っていう。
瞑想だって深められますよ、って
言うんだろうなぁ。
最近特に思うのは、
私はある意味で、レッスン中に人にエネルギーを流していて、
それは私のエネルギーではなくて、
源泉から湧き出ているものだから、
私が濁ってたら、それが濁っちゃうんだよね、って。
生徒さんたちは、徹底して浄化をする必要はないと思うけれど、
私は教える立場にいるので、ちゃんと清めていかないと、と思います。
私は、誰かを通したエネルギーは何であれ受け取りたくないです。
受け取りたいと思った人は、
自分の先生だけです。
自分が見ても、あぁこの人だったら濁っていないからいいなって思えるくらいに、
清めたいなぁ。
二年前、まだこのレッスン中のエネルギーの行き来が不思議で仕方なかった頃、
与えたらなくなっちゃうんじゃないかと思っていた。
実際、いつもレッスン後に空っぽになる気がしていたし。
かと思えば、自分も満タンに満たされる日もあって、
「あれ?与えることが出来なかったのかな?」
と頭をかすめたりもした。
その後インドで今の先生に会った時にそんな話をしたら、
【愛】に基づいていたら、いくらでも湧いてくるからね、
枯れることはないんだよ。
だから、ひたすら与えなさい。
と言われた。
途中で何度も何度も、
【枯れちゃうよ!! 】
って思いながら、
それでも、先生に会ってすぐに言われた【与え続けなさい】の言葉を思い出してやってきた。
枯れることはないんだ、
愛を与えたら、愛は湧いてくるんだ、
とだいぶ理解してきた、と思う。
そして、その愛の波動も高ければ高いほどに、
粒子は細かくなっているので、
身体(エネルギー体)の隙間という隙間にしみこんでいくことができる。
表面にある大きなブロックをごろりと取り除くというよりは、
直接奥深くへと染み込んでいき、
中央から酵素分解を始めて、
気づいた時には、内側から殻を破ってすっかり生まれ変わっちゃっているような、
そんな作用の仕方・・・
なのかもしれない。
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