魂の在り方と意識・感覚

仏教が肉食を許す理由

先日の仏教徒の青年と、その子のオススメの著者の本でやっとわかった。

どうして不殺生を戒律にしている仏教徒が肉食するのか。

ヨガを教えている日本人でなんだかんだお肉を食べてもいい理由をエネルギーの観点からとか色々説明しているひとも多いけれど、
私には、エネルギー的に見ても、カルマとして見ても、理解できなかった。
(だって、肉食の人は肉食のオーラしてるもん。)

そして、少なくとも私が先生と呼ぶ人たちで、お肉を食べる人はいなかったし、
「この先進んでいきたいなら、完全にベジタリアンになりなさい」
って言われる。
多分、それが門なのだと感じる。

その後「早くにベジタリアンになっておいて良かった」ってつくづく思う。

とかいいつつ、まだ私は魚と卵は時々食べるけれど。(自分からは選ばない)

一番最初に私に肉食を辞めるように勧めた先生は、カルマについてこう言った。
どうして食べるのか?というスワミの問いに私は、
「日本文化だから。」
「お母さんが作ったもの食べなかったら彼女怒るから」
「必要だから」
と答えたけれど、どれも理由になってないと思った。

結局、「私が食べたいから、選んで食べてるんだ」って思った。

【お肉を食べたい】= 一つの命を殺してもそれが食べたい。

という思い。
それは、暴力じゃないのか?
と聞かれた。

インドのカーストには、
僧侶・武士貴族・商人・奴隷
という階級の他に、職業ジャーティーという区分がある。

すべての職業が、世襲制で、それがすなわちカーストなのです。

漁師の家に生まれたら漁師のカースト。
肉屋に生まれたら肉屋のカースト。

そして、そこに生まれたらそこに生まれたことで生じる義務、すなわちその職業でしっかりと働くことが何より大切なカルマです。

だから(?)、漁師が魚を採ってくることや、
鳥肉屋がニワトリを飼ってそれを殺すのは、罪にはならない。

けれど、自らの欲求で肉(すなわち生きて動いていたものを殺すこと)を求めてその需要を成り立たせるエンドユーザーのカルマは重い。
食べないという選択をすることで、君は負のカルマを新しく積み上げていってしまう連鎖を避ける事ができる。

ってさ。

インドにいて思うのは、カースト上位の人は、それだけ責任も担っているということ。
もちろんカーストが廃止された今では成り立たないことも多いのだろうけれど、私はカーストが「悪の制度」だったとは思わない。
むしろ、カーストを否定する文化が流れてきてしまったことが悲劇なのではないかと。もちろん一概には言えないけれど。

カーストに縛られた社会も、自由と平等を謳っている社会も、
苦痛も幸せも、楽なことも大変なことも同じくらいあるんじゃないかと思う。

話がそれたけれど、カーストが低ければ、ある意味自分の目の前の仕事だけを考えて生きることが許されていて、
高くなればなるほど社会に対する責任が大きくなる。

そういう所も、カルマの考えに映し出されているように感じる。

(選択することができない)仕事として求められて、直接手を下す人よりも、消費者の方がカルマが重い。

と、言われた。

そして、本題。なぜ仏教の僧侶たちは肉を食べるのか。

答え
出家した仏教徒(比丘、比丘尼)は、

・・・・えっと、時間ないからあとで書きます(笑)

↓ 続き

仏教が肉食を許す理由 2

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