魂の在り方と意識・感覚

縁起

先日、とてもピュアな仏教徒の青年と半日、積もり積もった話をした。

彼の愛する人達は、キリスト教の方が多いらしく、
「基本的にキリスト教的考えでも、仏教的考えでも、話してると共感できて深いところまで通じ合えるんだけれど、彼らはその先にすぐ「神」って言葉を使うから、そこだけが違和感があって(笑)」
って言った時に、
私「仏教に、縁起って言葉があるでしょ?
あの「縁」っていうのが、神なんじゃないかなって最近思ってるんだ。」
って言ったら、
彼「なるほど!それだったら理解できる!やっぱり言葉が違うだけで印象が変わってしまうけど、大事なのは言葉じゃないね。あんまり言葉にとらわれないようにしようと思ってても、言葉に固定されちゃうことってたくさんあるね。」と。

彼のことを詳しく書きたいけれど、その為に著名な研究者Aさんのお名前を出してしまいかねないので、泣く泣く割愛。


いつかご紹介できる時が来たら。

「仏教の聖地を巡るという目的でインドに来てみたものの、表向きだけだったり、正直さを伴わない信仰やライトな修行に、嫌気がさして滅入ってたんだけど、
あの時仏陀が悟りを開いたあの土地で、ムクさんに出会えたから良かった。
ムクさんがリシケシにいてさえヨガが出来ないってずっと納得できずにいたって話を聞いた時、自分がインドを回って感じていたジレンマと同じで嬉しかった。
みささんって、どんな時でも ど真ん中 を進んでいくよね。それが凄く好きだ。あの時出会えて、深い話ができて、良かった。
Aさんも、きっとみささんの事を気に入るよ。」

縁あって、出会えた事に感謝。
そして今後が楽しみだね。お互いに。

同じ話を、違う人に言われたらきっとざわつくであろう心が、ざわつかない。
聖者に出会って教えを請い日々修行している人には、どこか共通した「shanti 平穏」のパワーが宿っていると感じる。
私はそれを「瞑想者のエネルギー」って心の中で名付けているのだけど、
それは宗教を超えている。

でも確かにあると思うのだ。
絶対的な平穏が、その人の存在の根底に流れていて、その人が例え声を荒げようが慌てようが、そういうことには関係なく、そこにある。

まだそういう人には、少ししか会っていないけれど。

もしかしたら、私がそう感じる人たちは、ずっと仲間だったのかもしれない。
ずっと、同じものを一緒に目指してきた仲間であり、先生たちであったのかもしれない。

無意識のレベルでそう思っているからか、
心に起伏はあるけれど、ざわつかない。
はっ!と思うような驚きも気付きも、スッと染み込んでくるような気がする。

思い出すだけで、その穏やかさが流れてくる。

別の友人がよく言う言葉で、
「どの分野でも、ある一定のレベルを超えると同じ事を共有してくる。
すべての道の頂上は一緒で、やり方が違うだけなんだろう。」
一つの山を、どこからどうやって登るかが違うだけで、科学も宗教も数学も文学も頂点は同じなのだという。

それを聞いてから、そう思うようにしているし、そう思える事も多々ある。

だから、それを前提で話を進めると、
私が「瞑想のパワー」ってものを内側に感じる人たちは、
単純に私と同じ登山口を選んだ人たちだってことかもしれない。

同じルートを歩んでいくから、
「私が学ぶベキこと」を秘めて現れてくれて、それが流れ出してくる。

言葉で思っていた訳ではないけれど、そんなふうに感じながら過ごしていた。

今まで起こった、すべての縁に感謝。

縁っていうのは、人と人との繋がりだけじゃなくて、
起こることすべて。

生きているのではなくて、生かされているのだなぁ。
と最近とみに思います。